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東山魁夷

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東山魁夷 
(ひがしやまかいい) 

日本への郷愁と西洋への憧憬 
風景により心の目が開けた  鑑真の心を慰めて差し上げたい 

  日本画の巨匠東山魁夷は、自然と向き合いながら、自然の奥にある本質に近づこうとした。自然への畏敬の念、あるいは生命の根源への崇敬心、普遍的なものへの接近、これが絵を描く力であった。それゆえ日本画でありながら、日本を越えた。若い頃のドイツ留学の影響を見逃すわけにはいかない。

日本画に西洋知性を

  東山魁夷は、戦後(第二次世界大戦後)活躍した日本画家である。代表作には、「残照」「道」などがあり、東宮御所にある大広間の壁画「日月四季図」や皇居新宮殿の壁画「朝明けの潮」なども手がけた日本屈指の風景画家である。60歳を過ぎた晩年、彼は奈良にある唐招提寺御影堂の障壁画(襖絵)を10年越しで完成させ、日本絵画史上、最大級の傑作を残すことになった。
  彼の作品は、祈りの芸術、あるいは東洋的内観などと呼ばれた。しかし、そればかりではない。彼はベルリン大学で西洋美術史を学び、西洋的理性を身につけて帰国している。日本的な感覚主義の上に、西洋的知性を積み重ねる努力を怠らなかった。ほとんど全ての作品に理知的な文章による詳細な解説が加えられていることをみてもそれは明らかである。青年時代のドイツ留学、そこで彼は東洋的感性で西洋芸術に親しみ、帰国後日本画の中に西洋的知性を取り込もうとしたのである。

「画家の道を歩め」

  1908年7月8日、東山魁夷は横浜に生を受けた。本名は東山新吉。父の仕事の関係で、3歳で神戸に移り住む。父はそこで船具屋を営んでいた。しかし、父の商売は思うようにいかず、酒に酔って帰宅し、母に不満をぶつけることが多かったという。新吉は、苦労の絶えないそんな母の姿を見て育った。絵を描くのが好きな少年だったが、画家になることは考えられなかった。大人になったら、何よりも母に楽をさせてあげたい。そう思えば、画家のような不安定な道を選ぶことは考えられなかったのである。
  しかし少年の心の深奥には、ある種の押さえ難き衝動が起こってくる。中学生の時のことである。教育の情熱に燃えた担任の先生が、「君は画家になるのか」と新吉にたずねた。それに対して、「画家にはなりません。自分が貧乏するのは平気だけれども、おふくろが悲観するから」と答えた。先生は、フフーンと言って、それきり黙ってしまった。
  それからしばらくして、先生の授業中にプリントが配られた。見るとその余白部分にいたずら書きのように変な言葉が書かれている。「絵に志そうとする子がある」「母のためにたじろぐ」「その子の前途は安らかであるが、自分の心のためには暗い」などと書かれているではないか。印刷されたものであるから、当然他の生徒も読んでいる。しかし、一風変わった先生のことであるから、変な落書き程度にしか受け取らなかっただろう。
  しかし新吉の心には、相当なインパクトを与えた。それは「画家の道を歩め」という先生の無言の諭しであった。直接に言われる以上の重さを持って、新吉の心に投げられた先生の一石。その波紋は時の経過と共に大きくなり、画家になる決心を促すことになる。

ドイツ留学

  1926年18歳の時、念願が叶って東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学した。父の仕事は相変わらず思わしくない。その上、兄が結核に冒された。母の献身的な看病もむなしく、3年後に息を引き取った。新吉は特待生であったので、授業料は免除されていたとはいえ、生活費は自分で稼がなければならない。童話、絵本などの挿絵を描いて収入を得たという。質素、倹約をこころがけ、遊興は自らに禁じていた。
  苦学しながらも、1931年3月、日本画科を卒業した。優秀な成績のため、川端奨学資金賞を受賞。画家として前途有望な門出となった。この頃、雅号を魁夷とする。
  卒業して2年後の1933年8月、東山魁夷はドイツ留学のため、福岡県三池港で貨物船に乗り込んだ。日本画家が何故ドイツなのか。遠回りのようにも思われる。しかし、彼は「日本の美を日本を離れて外から見てみたい」という強い希望を持っていた。それと西洋的なものへの憧憬があった。絵を描きはじめた頃から、日本への郷愁と共に、西洋への憧憬が車の両輪のように少年の心に内在していたのである。
  渡欧した翌年、ベルリン大学哲学科美術史部に入学。そこで専門の講義を聴きながら、暇を見つけては各地の美術館を巡り、西洋絵画に直接触れるという貴重な体験をした。特にヨーロッパ一周の旅で訪れたイタリアで、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノなどをつぶさに見た。ルネッサンスの巨匠たちの作品に圧倒され、興奮したものの、同時に絶望感に襲われたという。どんなに努力しても、この域に到達することはできない。自己の能力の限界に直面せざるを得なかったのだ。
  そんな中でも救いであったのは、サン・マルコ僧院で見たフラ・アンジェリコの壁画であった。簡素で平明な表現、そこに静かな安らぎを漂わせている。日本画に似ているように感じられた。「自分の絵はこの延長線上にある」と確信したのである。西洋の中に日本的なものを見出すことで、日本画の中に西洋的なものを取り込む一つの具体的なイメージが固まろうとしていた。

闇の中の光明

  1935年9月に帰国。その後、彼の生涯の中で最も辛く暗い数年間を過ごすことになる。37年、帰国後はじめて第一回帝展に作品を発表したが落選。家計を助けるためにも早く認められたい。そんな焦りで描いた作品であった。それだけにこの落選は自分自身をみじめな思いにさせた。
  その後、日本は戦争へと転がり落ちていく。戦時中、父が病気で死亡。その上、空襲で家をも失う。さらに追い打ちをかけるように、魁夷自身にも召集令状が届き、熊本の連隊に配属される。やっと戦争が終わったかと思うと、その年(45年)の11月に最愛の母を失い、翌年3月には弟を結核で失った。魁夷は37歳にして肉親の全てを失ってしまったのである。しかし、はっきり言えることは、この期間がなければ後の巨匠東山魁夷が生まれることはなかったということである。
  この間、闇の中であったとしても二筋の光明があった。一つは1940年、生涯の伴侶を得たことである。戦時中のことを述懐し、彼は「幸福とは、満ち足りたところにあるのではない。乏しく、不幸な状態の中でも、お互いの心の暖かみによって、支え合っている単純な愛情」の中にあると語っている。人生の支えを得たことは大きな力となったのだ。

自然との新しい出会い

  もう一つの光。それは自然との新しい出会いであった。この出会いこそが、風景画家としての魁夷にとって決定的なものとなったのである。一兵卒として、熊本城址まで来たときのこと。天守閣跡に立って、肥後平野を眺めると、遠くにかすんで見える雄大な阿蘇、澄み切った空の青、威厳に満ちた山々、森や平野の緑。こんなに美しい自然を見たことがない。身が震えるほどの感動を覚えた。
  この時のことを魁夷は、「風景によって心の眼が開けた体験」と呼んでいる。二度と絵筆を取ることはあるまいと悲壮な決意で熊本に来た。入選するような作品を描きたい、早く認められたい、こうした思いが全て消えてしまっていた。その城址に立っていたのは、明日の命さえ保証されない状況の中で、世俗的なものを全て削ぎ落とされた「裸の東山新吉」その人であった。一人の人間として無心に風景と向かい合ったとき、はじめて自然はその本当の姿を現したのである。暗いトンネルを抜け出す契機となった体験であった。
  その後の東山魁夷の活躍はめざましい。戦争が終わって2年後の1947年、日展に「残照」を出展。これは特選となり、政府に買い上げられた。さらにその3年後に代表作「道」を発表。風景画家として不動の地位を確立した記念碑的作品である。画面の中央に一本の道路、その両側に草むらという実にシンプルな構図。戦争で途絶えてしまったと思っていた道が、実は先に続いていた。その実感を絵にしたのである。

唐招提寺への道

  1970年末、唐招提寺御影堂の障壁画の依頼が舞い込んだ。しかし、そう簡単に引き受けられるものではない。大変な仕事になることは想像できたし、歴史的な由緒ある寺に相応しい絵が描けるかどうか、自らの非力を恐れたのである。
  この寺は、今から1200年前、唐(中国)から来日した鑑真和上に由来する。仏法(戒律)を伝授するために建立された寺で、当時の最高学府でもあった。すでに唐で戒律の最高権威としての地位を確立していた鑑真であったが、日本の僧の依頼を受けて来日を決断した。その時すでに55歳、日本への渡航は想像を絶するものであった。5度の難船や妨害にひるむことなく、6度目の航海でようやく来日を果たした。すでに12年の歳月が経ち、鑑真は67歳になっていた。しかも失明状態であったと言う。
  この鑑真の生き写しとも思われる「鑑真和上像」が安置されているのが御影堂。ここの障壁画を描くのである。身のすくむ思いであった。半年の熟慮の結果、この依頼を天命と受け止め、魁夷は承諾の返事をした。身命を賭して全うしたいという静かな決意が固まったのである。
  御影堂の障壁画に何を描くべきか。いろいろ考え、瞑想した結果、山と海を描くことにした。山と海は、日本の風景を代表する二つである。盲目の鑑真が見たくても見ることができなかった美しい日本の風景。その山と海を描くことで、鑑真の心を慰めて差し上げたい。こんな思いがわき起こってきた。さらに山は鑑真の徳の高さ、海は精神の深さの象徴でもある。
  写生の旅で東山魁夷は不思議な体験をすることになる。無心で風景を見つめていると、「この景観を描け」と何者かが自分に命ずるのを感じたと言う。それまでも風景のほうから、描いてくれと言う囁きを聞いたことは何度もあった。しかし、今回はそれとは違っていた。虚空のどこからか発せられた無言の声だと言うのである。1200年前、鑑真を来日へと突き動かした見えざる大きな力が、今、千年の時を越えて自分に臨んでいる。彼にはそう感じられた。
  1981年7月、御影堂障壁画の全てが完成した。73歳であった。依頼を承諾して、ちょうど10年の歳月を要したことになる。心の遍歴を続けながら、芸術の頂を極めたと言っても過言ではない。風景と真摯に向き合えば、その奥に秘められた自然の本質に触れることができる。その結果、「地上に存在する全てのものと自己とが、同じ宿命につながり、同じ根を持つ存在である」という境地に到達した。それはおそらく鑑真が会得していた境地でもあったに違いない。




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