神谷美恵子
(かみやみえこ)
ハンセン病患者の心の友に
病人に呼ばれている! 不治の病からの生還
当時ライ病と呼ばれ、人々から忌み嫌われたハンセン病。一度この病気にかかると社会から隔離され、絶望のうちに死を待つ生活が待っていた。神谷美恵子は、19歳で衝撃的な出会いをなし、この患者と向き合う決意をする。彼らに負い目を感じながら……。
貧しい者への後ろめたさ
神谷美恵子は精神科の医師であり、大学教授であり、著述家でもある。しかし何よりもハンセン病(ライ病)患者のために捧げたその人生のゆえに、知られている。彼女を知る者は誰もが口をそろえて言うことがある。その明晰な頭脳と謙虚さである。明晰な頭脳は、語学力と学問の世界で遺憾無く発揮された。
しかし、彼女の偉大さはその明晰な頭脳ゆえではなく、その精神と生き方にこそ現われている。文部大臣を父にしながらも、驕る気持ちは少しもない。誰からも羨ましがられる才能と容姿を持ちながらも、派手さを嫌い、引っ込み思案ですらあったという。
父の仕事で、9歳からジュネーブで3年半生活したときのこと。父は外交官であったため、召使や運転手付きの生活であり、豪華な邸宅に住んでいた。しかし、そのことに彼女は幼いながら、居心地の悪さを感じ続けている。それだけではなく、外交官的な生活だけは絶対にしたくないとすら感じていたのである。
その頃、家に来て彼女にピアノを教えてくれる女の先生がいた。彼女はその先生に対して、一種の負い目、後ろめたさのようなものを感じていたという。細身の内気そうなその先生は、容貌からしていかにも貧しそうだったからである。自分たちだけが恵まれた環境で生活していることに、安閑としていられないのだ。彼女のこうした感性は生涯消えることはなかった。
ハンセン病との出会い
自分だけが恵まれることに後ろめたさを感ずる美恵子の感性は、彼女を取り巻くキリスト教的環境からの影響も少なくないように思われる。父の前田多門は、クリスチャンの新渡戸稲造に私淑していた。母の房子も、クウェーカー派のキリスト教信者で、多門との結婚も、新渡戸の強い勧めがあったのである。また母の弟、つまり美恵子の叔父は、内村鑑三が提唱した無教会派に属する熱心な伝道師であった。
この叔父に同行して、東京にある国立療養所・多摩全生園を訪れた時、美恵子の人生を変える衝撃的な出会いをするのである。多摩全生園は、ハンセン病患者の療養所で、そこのキリスト教関係者から叔父が招かれて話をしに行くことになり、美恵子は賛美歌を歌う際のオルガン伴奏を頼まれていた。
彼女は当時、津田英学塾(後の津田塾大学)の学生、19歳の多感な女学生であった。そこで彼女が見たものは、見る影もなく病みくずれていた患者たちの姿であった。鼻のない人、下唇が下へ垂れ下ったままの人、まぶたが閉まらない人、四肢のない人。
それだけでも、彼女にとっては十分にショッキングなことである。しかし、驚きはそれだけではなかった。むしろそれ以上に驚いたことがある。彼らは声高らかに賛美歌を歌い、信仰の喜びを口々に語っているではないか。呪うべき運命のなかに身を横たえながら、彼らが発する感謝の言葉。彼女は言う、「これはどういうことか。私は震えながら、じっと聞いていた」。
そして、「こういう患者さんたちのところで働きたい。ここにこそ私の仕事があったのだ!苦しむ人、悲しむ人のところにしか私の居場所はない」と思いを定める。この時彼女は、「自分は病人に呼ばれている」と感じたという。天職を自覚した瞬間であった。
アメリカ留学と医学への道
ハンセン病患者のため、医師になろうと準備を始めたが、父の猛反対に会い、諦めざるを得なくなる。津田英学塾本科を卒業後、少しして突然病魔が美恵子を襲った。不治の病とされた肺結核である。約半年の療養生活で奇跡的に回復したものの、翌年再発してしまう。死の宣告と同じであった。しかし、この時も奇跡的に死の淵から生還した。
絶望のどん底に苦しむこの時期、不思議な体験をした。彼女が「光の体験」と呼んでいるものである。突然、斜め右上から眩しい稲妻のような光が視界に飛び込んできた。その瞬間、烈しい喜びに突き上げられ、自分でも不思議な凱歌の言葉を口ずさんでいた。いったい誰が私にこんな言葉を言わせているのか、と訝るほどの唐突な体験だったという。死地を彷徨いながら、絶望に沈む彼女に生きる力を与えた体験となった。
1938年、24歳で美恵子はアメリカのコロンビア大学に留学する。ちょうど父もニューヨークの日本文化会館の館長に就任したため、両親と一緒の渡米となった。コロンビア大学で専攻したのは、ギリシャ文学であった。しかし、彼女の医学への情熱は無意識の中でますます大きくなっていく。
寮で一緒となった友人は、美恵子の口から「病人が私を待っている」という言葉をときどき聞いたという。無意識の内に美恵子の口から出ていたのである。「ギリシャ文学はいつでもできる。今やらなければならないのは、医学である」。やはり、医学の道を目指そう。彼女の心は固まりかけていた。問題は父である。愛し、尊敬する父の反対は美恵子を苦しめた。しかし、医学への情熱と気迫が父の頑なな心を変えさせた。父は、「君も医学に取り憑かれたのだろう。これも何か運命なのだろう」と言って、ハンセン病に関わらないという条件で、医師になる道を認めてくれた。夢に一歩近付いた。
さっそく医学進学コースに転部した。猛烈な勉強の日々が始まったが、それを辛いとは思わなかった。心の中には燃えるような充実感があったからである。
精神科医に
医師になるには、日本で医師免許を取らなければならないため、美恵子は1940年に帰国した。その年に、東京女子医学専門学校(現在の東京女子医大)に入学を許可され、44年にそこを首席で卒業し、医師になる夢を実現した。
しかしハンセン病との関わりが、そこからすぐ始まったわけではなかった。父の絶対的な反対が、その道を閉ざし続けた。多大な経済的な負担をかけてきたこともあり、親孝行だった彼女は父を無視することができなかった。
ハンセン病との関わりを心の奥底にしまいこんで、彼女は精神科医としての新しい人生を出発した。精神科を選んだ理由は、いかにも美恵子らしい。治療の成果がすぐに現われることがなく、人に騒がれたり、患者にちやほやされることが少ない、地味な隠れた道であったからである。それに精神科の治療は、患者の内に潜む自立の力を引き出し、自分の力で立ち直ったと思わせなければならない。つまり、治癒したとき医師は忘れ去られる存在となるのである。医師として患者の上に立ったり、報いを求めて行動することは、耐えがたかったのだ。
彼女の姿勢は一貫している。不幸な運命を背負った者たちへの負い目であった。「あの人たちは、自分に代わって悩んでくれている」。それは強者の立場から、弱者をみる同情とは全く違う。むしろ、それは深いところで他者とのつながりを自覚する一種の宗教的感性と呼べるものである。彼女は生き方は、この負い目を償うことに常に傾けられていた。
愛生園との関わり
美恵子が本格的にハンセン病にかかわる時が来た。41歳になった1955年、体の不調を感じ、検診を受けてみたら子宮ガンと告げられた。幸い初期であったため、ラジウムの大量照射で進行は食い止められた。しかしいつ再発するかわからない。あと何年生きられるだろう。彼女の心残りは一つだけである。心の深奥からその声が聞こえてくる。「ハンセン病患者に呼ばれている」。これは医学を志した彼女の原点であった。
そんなとき夫の助言があった。「ハンセン病と精神の関わりを研究して見たらどうか」。この分野の研究は当時日本では非常に遅れていたし、彼女の精神科医としての専門も生かされる。もはや彼女に迷いはなかった。人生の仕上げの段階が近付いていたのである。
瀬戸内海に長島という小さな島がある。この島に長島愛生園というハンセン病患者を収容する施設があった。1930年に強制隔離を目的に日本最初に建設されたものである。精神科医となっていた美恵子は、この島でハンセン病患者の心の病に向き合い、彼らの心のケアーに携わることになる。19歳でハンセン病と衝撃的出会いをしてから、すでに23年の歳月が過ぎ、美恵子は42歳になっていた。
この仕事に就くことになったとき、彼女は日記に次のように記している。「うれしくて夜中に目を覚まし、一人で感激。ああようやく神様が許して下さるのかと思う。一人涙す」。積年の念願がようやく叶ったのだ。
その頃、夫の仕事(大阪大学)で兵庫に住んでいた。自宅から島に通う新しい生活が始まった。大学の教員を続けながら、母として妻として家庭を守りながらの生活である。月に2回、土曜の未明家を出て、電車、汽車、船と乗り継いで、約5時間かけて午前のうちに島に到着する。それから調査、診察を夜遅くまで続け、日曜日の翌朝、船で帰るというスケジュールであった。狭心症で倒れるまで約15年間続いたこうした生活も、彼女は一度も辛いとは思わなかった。自分がやるべき仕事に就いているという充実感に満たされていたからである。
「人生を統合せよ」という言葉がある。バラバラで、偶然の積み重ねと思える過去の体験が、一つの意味あるものとして統合するという意味である。美恵子の人生を見るとき、この言葉がそのまま当てはまる。死の淵を彷徨った2度の結核も、ハンセン病患者の心と向き合うのに、必要な体験であった。父の反対のゆえに、遠回りしたように思えるが、それゆえにこそ、学問を深めることができ、人間精神の奥行きを極めることができたのだ。
「あの方たちは私に代わって悩んでいてくれる。人類の悩みを私に代わって負っていてくれる」と捉え、ハンセン病患者に負い目を感じ続けた美恵子であった。医師としての立場からではなく、痛みを共有しようとする一人の友として、患者に接した15年間、十分彼女は負い目を償った。「彼らの心の友とさせていただいたことが光栄である」と彼女は語っている。多くの心の友に惜しまれながら、1979年10月22日、65年の生涯を終えた。
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