松下幸之助
(まつしたこうのすけ)
「貧困をなくす」使命感
アメリカの繁栄から学ぶ 一番は利益じゃない
経営者として松下幸之助ほど、多くの影響を与えた人物は他にはいない。極貧の家庭から一代で巨大企業を立ち上げたというサクセスストーリーのゆえばかりではなく、彼の経営哲学のゆえである。また戦後の経営再建のきっかけとなったのは、敵国アメリカに渡り、そこから謙虚に学んだからである。
9歳で丁稚奉公
松下電器産業の創業者松下幸之助は、極貧の環境から一代にして巨大企業を築き上げた伝説的人物であり、「経営の神様」と称されるほど経済界に多くの影響を与えてきた人物である。また松下電器産業といえば、今日従業員26万人以上をかかえ、関連会社を国内に104社、海外に200社を有し、売上高は連結で6兆8千億円を超える超マンモス企業である。そこに至るには時代の変化を巧みに読みとる松下の洞察力と先見の明があったことは疑い得ないことである。
松下幸之助は1894年11月に和歌山県の田舎に生まれた。8人兄弟の末っ子で、親や兄弟たちからかわいがられて育った。松下家は村の旧家で暮らし向きも上の部類に属していたという。
しかし松下が6歳の時、家が破綻した。父親が米相場に手を出し大失敗をしてしまったのである。先祖伝来の家や土地を一瞬にして失い、一家は和歌山市内に移り住むことになる。生活に困った父は知人のすすめで、下駄屋を始めたが、2年余りで挫折した。一家は困窮の極みに陥った。
その後、父親は単身大阪に出て、私立の盲唖院に職を得て、わずかな仕送りを一家に送り続けていた。松下が小学校4年生の時、父からの手紙で「火鉢屋で小僧がほしいといっているから幸之助を大阪によこせ」と言ってきた。やむなく小学校を中途で退学せざるをえなかった。こうして松下の社会生活は大阪の火鉢屋での丁稚奉公から始まった。9歳のときであった。
力仕事はさほど辛いとは思わなかったが、「寂しさはまことに耐え難いもので、はじめは毎晩、店が閉まって床に入ると母のことなどが思い出され、泣けて泣けて仕方がなかった」と晩年松下は述べている。
電気事業に着目
ところがこの火鉢屋は、松下が奉公して3ヶ月後には店を閉じることになった。そこで彼は親方の知り合いの自転車店にお世話になることになる。この自転車店への奉公は、17歳の時まで続いた。この頃、大阪市は全市に電車を走らせる計画があり、すでに一部は開通していた。彼は考えた。全市に電車ができたら、自転車の需要は減少するに違いない。これからはむしろ電気事業が将来有望である。彼は転業を決心した。
その後大阪電灯という会社に欠員ができたので、そこの営業所内線係に勤めることになった。これが電気事業に関わりを持った最初である。この仕事に7年間従事して、順調に出世もしたが、仕事が楽になった分だけ、同時に情熱も失せてきた。
その頃彼は、新しいソケットを作る研究を始めていた。ようやくできあがった新型のソケットは実用品としては未熟なものであったが、これを何としてもものにしたいという気持ちが松下を新会社設立へと突き動かした。持ち前の探求心と向上心、それに24歳という若さがみなぎっていたのである。
自転車ランプの製造・販売
その後会社は決して順風満帆ではなかったが、自転車ランプの製造・販売で大きな飛躍を遂げた。当時の自転車ランプはロウソクやアセチレンのガスを使っていて、不便な上、高価でもあった。以前松下は自転車店で奉公していたのでこのことは熟知していた。
当時すでに電池式ランプもあるにはあったが、2、3時間で消耗してしまい、構造も不完全で実用にほど遠いものであった。それを徹底して研究し、簡単な構造で、無故障、さらに電池の持続時間30〜50時間のものを完成させた。値段も安い。自信作であった。
しかし予想に反して、問屋はどこも取り扱ってはくれなかった。在庫はたまるばかり。時間が経てば当然電池は傷む。松下は背水の陣をしいた。製品の真価を知ってもらうために、小売店に資本の続く限り無料で配る決心をしたのである。大阪中の小売店に、2、3個のランプを置いて回り、そのうち1個はその際点火する。「30時間以上点灯し、製品に信用が置けるようになったら、売ってください」と頼みながら。
この結果、評判が徐々に高まった。2、3ヶ月後には、小売店から電話やはがきで注文が舞い込んでくるようになった。松下の賭が当たった。しかし勝算のない賭ではなかった。製品に対しては絶対的な自信を持っていたのである。松下自身、このことが今日の松下電器産業の基礎となったと述べている。
経営再建のため渡米
戦後の日本経済の再建は1950年から始まったと松下は言う。戦後の5年間は占領軍による様々な制約があって、企業本来の動きが封じられていた。それが次第に解除され、1950年の半ばあたりから、本来の企業活動が可能になった。
彼はこの機を逃さず、会社幹部を一同に集めて、経営再建声明を発表し、再建への強い決意を示した。「いまや新たなる使命を自覚し、しかも日本の真の再建に思いをやるとき、仕事に励む喜びが芽生えてきた。明けても暮れても商売一本でいく意欲がわいてきた」。戦後焦土と化した日本の中で、松下は確実に明るい未来を見据えていた。さらにその未来を自分たちの手で築き上げようという強い気概に溢れていた。
これからの経済活動は世界的な規模で展開しなければならない。そのためには戦勝国であり、世界最強国であるアメリカに謙虚に学ぶ。このことに松下は、何のためらいもなかった。翌年1月にアメリカに向け、はじめての海外渡航に旅立つことになった。
当初この旅行は1ヶ月の予定であった。しかし、結局は3ヶ月の滞在になった。アメリカの豊かさに圧倒され、このチャンスを生かしてできるだけ多くを見聞したいという欲が出たからであると松下は述べている。
GE(ゼネラル・エレクトリック)社と松下電器の賃金格差にまずは衝撃を受ける。GEが作っている標準型ラジオが当時24ドル。ラジオを作っている工員の1日の労賃は12ドル。つまり、2日働くと自分の会社で作っているラジオが買えることになる。ところが松下電器ではラジオが当時9千円。工員の平均賃金は月6千円前後。つまり1ヶ月半働いてようやくラジオ1台買える計算となる。この差に松下は愕然とし、奮い立つ思いで、「是非ともアメリカのようにしなくては」と決心し、帰国後それを社員に訴えた。
3ヶ月間、アメリカで多くのものを見聞し、一つの結論に到達する。「民主主義というものは繁栄主義」ということである。日本がこれから真の民主主義になれば、必ず繁栄する。これは松下が37歳の時悟った「商売する者の使命」をアメリカを通して再確認したことでもあった。
命知元年
時代は1932年に遡る。松下電器産業では毎年5月5日に創業記念式典が挙行されている。この5月5日は会社が設立された日ではない。実は1932年5月5日、松下は商売人の使命を自覚した。その年を「使命を知った」として命知元年とし、毎年5月5日に創業記念式典を行っているのである。
知人の勧めで某宗教団体の本山を訪れた時のこと。元々松下はその宗教の信者だったわけではなく、宗教にさほど強い関心があったわけでもなかった。ただ知人の強い勧めに抗しきれず、好奇心も働いて覗いてみたということであったろう。
そこで見た光景に彼は驚嘆した。教団内の作業場では、みな喜びに満ち、働く意欲と責任感に溢れているではないか。その上、給料はもらっていない。奉仕である。給料をもらっている彼の工場の工員たちより、はるかに嬉々として働いているのはなぜだろう。
松下のすごさは、何事も徹底的に考え追求すること。それと自分が出会うことから、何かを学ぶという謙虚さである。たとえば彼は幼児のように「なぜ」を執拗に繰り返す人であった。自分はなぜ存在しているのか、誰のおかげなのか。両親のおかげである。ここまでは誰でも考える。しかし彼の場合はこれで終わらない。その両親はどうして存在したのか。さらに上の両親がいたからである。ではそのまたそのさらに上の両親は。こうなると当然人間始祖に行き着く。では人間始祖はなぜ存在したのか。考え抜いた松下は「宇宙根源力」という概念を作り出してしまった程である。
こうした思考方法は、一経営者のそれをはるかに超えている。むしろ宗教者の発想に近いと言えるだろう。その日、某教団から帰っても、彼の執拗な「なぜ」はやむことがない。考え抜いたあげく彼の到達した結論は、使命感の違いであった。
この教団には使命感がある。悩める人を導き、安心を与え、その人の人生を幸福なものにしようとして、全力を尽くしている。まさに聖なる事業である。とすれば、会社の経営も、人々の生活に必要な物資を生産しそれを提供するという聖なる事業であるはずである。つまり、それは「貧困をなくすること」であり、それは心の安定を提供する宗教に勝るとも劣らない聖なる事業である。これが彼の悟りであり、経営哲学である。
この考えは松下の一生を貫いて変わらなかった。「経営の神様」と呼ばれた男は、こう断言する。「一番大切なものは利益じゃない」。商品を普及し、人々の生活を潤すこと。人々の生活向上に奉仕すること。松下電気産業の発展は、戦後の日本の経済発展と共にあった。否、松下の経営哲学が戦後の日本経済を引導したと言えるのかもしれない。
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