IFSAは外国人留学生のための様々な情報提供、就職・転職支援(日本人海外経験者含む)までを行う非営利団体です。

盛田昭夫

Top>向学新聞現代日本の源流>盛田昭夫


盛田昭夫 
(もりたあきお)

トランジスタで世界を制す
世界初、小型化のソニーブランド  井深大の女房役に徹す

  ソニー発展の背後には、盛田昭夫のショッキングな欧米体験があった。安物の代名詞というメイドインジャパンの現実を思い知らされたのである。これを変えることが、彼の最初の目標となった。盟友井深大との友情と二人三脚でメイドインジャパンのイメージを見事に変えたのである。

世界的経済人の仲間入り

  盛田昭夫は、日本が世界に誇る大企業ソニーの創業者の一人である。戦後、20数人の町工場から今日の大企業に育てた手腕は高く評価されている。もう一人の創業者である井深大は主に技術面を、盛田は営業面を担当した。
  テープレコーダーをはじめ、世界最小のトランジスタラジオなどの独創的な製品を販売するにあたり、家族と一緒にアメリカに移り住んだ。「アメリカで売れるものは世界で売れる」。盛田の信念であった。その後、世界中に販路を開いて「世界一小さいラジオで世界を制した」と言われた。
  亡くなる前年の1998年には、米タイム誌が選んだ「20世紀に最も影響のあった経済人20名」の一人に選ばれた。20名の中にはウォルト・ディズニー、ヘンリー・フォードという錚々たる名前が並んでいる。押しも押されぬ世界的経済人の仲間入りを果たしたのである。選ばれた理由は、「それまで安物の代名詞であったメイドインジャパンのイメージをソニーが変えた」と言うことであった。

井深大との出会い

  盛田昭夫の人生は井深大抜きに語ることはできない。昭和18年、日本は戦争の真っ只中、日本軍の劣勢が色濃くなり始めた時期である。日本軍は、劣勢挽回のため、陸軍、海軍、官、民の枠を越えて広く人材を集め、「科学技術研究会」を開いていた。新兵器の開発のためである。この研究会に盛田と井深が参加しており、二人の半世紀に及ぶ関係が始まった。
  井深は当時、「日本測定器」という会社を作っており、周波数継電器という製品を開発していた。これが兵器にも利用できるということで、この研究会の一員に選ばれていたのである。一方、盛田は大学卒業したてのほやほやの軍人で、海軍技術中尉であり、海軍の代表として参加していた。
  この研究会で盛田は井深の技術者としての見識の高さに驚き、敬服した。井深も自分の意見をはっきりと主張する盛田という人間に惹かれた。盛田は井深より年が13歳も下でありながら、対等に口をきいていた。盛田が注文を出す側の海軍の代表という立場であったからであるが、それだけではない。お互いが相手の中に尊敬に値するものを見つけだしていたからであろう。
  その上、戦争に対する見方が一致していた。彼ら二人は戦争を客観的、合理的に見ていた。戦争は国と国との技術力の勝負であり、技術の優劣が勝敗を決する。日本の悲劇的敗北は動かしがたいものである。この点で二人の見解は全く一致していた。二人はこの頃から戦後のことを考え話し合っていた。
  戦後まもなく、井深大は東京の日本橋に「東京通信研究所」という会社を興していた。会社を興した直後、井深が開発した短波コンバーターが飛ぶように売れた。終戦後、2ヶ月も経っていないときのことである。この活躍に目を付けたのが朝日新聞であった。1945年10月6日付けのコラムに井深の仕事ぶりを詳しく紹介した。
  戦後、名古屋に帰省していた盛田は、偶然このコラムを目にした。彼は飛び上がって喜んだ。「よかった。井深さんは生きていた」。盛田はさっそく井深に手紙を書き、東京行きの列車に飛び乗った。この再会が盛田と井深の運命を決定した。1946年5月に「東京通信工業」(ソニーの前身)を設立し、彼ら二人の二人三脚が始まった。

トランジスタへの取り組み

  1953年8月、盛田ははじめて渡米した。目的はトランジスタの特許使用の件で、WE(ウェスタン・エレクトリック)社と契約を結ぶことであった。実はその前年の52年に相棒の井深が、テープレコーダーの視察調査を目的として渡米していた。日本で彼らが開発したテープレコーダー(当時テープコーダーと呼ぶ)の販売が軌道に乗り、海外での販売戦略に乗り出そうとしていたのである。
  しかし、アメリカは当時まだテープレコーダー市場が成熟していなかった。講演の速記や報道機関のメモの代用品として使われているにすぎない。井深は拍子抜けした。その渡米中の井深にトランジスタの話が飛び込んできた。WE社が特許を望む会社に公開してもいいと言うのである。井深は技術者の勘で「トランジスタをやってみよう!」と思った。すでに120人を超える社員を抱えており、テープレコーダーだけではいずれ限界が来ることは目に見えていたからでもあった。
  これは危険を伴う大きな賭でもあった。特許料が2万5千ドル、日本円にして900万円。1年間の利益が吹っ飛んでしまう。井深はトランジスタを使ったラジオを考えていた。しかし、アメリカの技術者は誰もが否定的であった。トランジスタの歩留まり(良品化率)が悪すぎて、アメリカのメジャーな会社も成功していないと言うのである。
  しかし井深には自信があった。「歩留まりが悪いのは、どこかに欠陥があるからだ。その欠陥さえ見つけだせば、歩留まりはパッと上がるはず。歩留まりが悪いものほど、やるべき価値があるはずだ」。
  帰国した井深に大多数の社員は反対した。「危険すぎる。これは大会社がやるべきことだ」と。しかし、盛田は賛成した。やるだけの価値がありそうに思えた。二人は大いに盛り上がった。井深が、「真空管の代わりにトランジスタを使えば、超小型のラジオができる」と夢を語れば、盛田は、「日本人は昔から小さな物や小さくまとまった物が好きだ。掛け軸はきちんと巻物になるし、屏風もたたんでしまい込むことができる。我々はワイシャツのポケットに入るような小さなラジオを作ろう」と言って応えた。この二人の夢が他の社員の反対を押し切った。

メイドインジャパンのイメージ

  トランジスタの契約ではじめてアメリカを見た盛田は、そのスケールの大きさに圧倒されるばかりであった。「なぜ、こんなとてつもない国と戦争したんだろう」。盛田はあらためてこう思わざるを得なかった。WE社との調印を済ませた後、盛田はヨーロッパ視察に向かった。
  最初の訪問先はドイツ。長い伝統を持つドイツの優秀な技術に脱帽した。こうした国とどのようにして競争していけばいいのか。盛田の気持ちはしばし打ちのめされる思いであった。それに追い打ちをかけるようなことが、次の訪問国オランダで起こった。レストランで盛田はアイスクリームを注文した。注文の品を持ってきたボーイは、アイスクリームの上に飾りとして乗せてあった日傘を指して言った。 「これは、あなたのお国のものですよ」。
  ボーイの何気ない言葉に盛田の心はひどく傷ついてしまった。「彼らのメイドインジャパンの認識などは、この程度のものなのだろう。メイドインジャパンとは、安手の雑貨物にすぎないのだ」。このイメージを何としても変えたかった。盛田の最初の目標が決まった瞬間である。盛田は後に次のように語っている。「私は輸出業者として、メイドインジャパンのイメージを変えたかった。それが私の最初の目標でした」。
  盛田の最初の渡米からちょうど2年目の1955年8月に、日本初のトランジスタラジオ「TR―55型」が完成した。自社でトランジスタを製造し、その石を使ってラジオを作ったのは、東京通信工業(現ソニー)が世界ではじめてであった。これ以降、世界初、小型化というコンセプトは、東通工のお家芸となっていく。
  このトランジスタラジオは国内はもとより、海外でも売れに売れ、日本はトランジスタ王国と呼ばれるほどになった。ソニー・ブランドが世界中に認知されたのである。

二人三脚

  ソニー発展は盛田と井深の二人三脚が原動力の中心となっていたことを疑う者はいない。夫唱婦随という言葉がある。夫が言い出し、妻がそれに従うという意味であるが、この二人にこそ、この言葉が相応しい。
  発明家で天才肌の井深を盛田は女房役に徹して支えてきた。井深はプライベートでも公でも、何でも盛田に相談したため、井深夫人はあきれて、「どうして私より先に盛田さんに相談なさるの」と言ったという。
  井深は前しか向いていない。色紙には常に「創造」と書いた。何十年ぶりで人が訪ねてきても、訪問の目的を聞いて、何か新しいものがないとなると会おうとしなかった。過去を懐かしむという価値観がなかったのであろう。社史を作ることにも全く関心を示さなかった。過去の実績を並べ立てても意味がないという考えなのだ。
  ウェットな体質の人が井深を理解することは難しい。そこを見事にフォローしてきたのが盛田であった。前しか向こうとしない井深を、盛田は前後左右上下を隈無く気を配りながら支えてきた。天才型の井深には実務家の盛田が必要であり、盛田にしても井深を守るのは自分しかいないという自負心があった。
  このコンビで、今日の「世界のソニー」を築き上げてきた。20世紀の後半、戦後の日本の発展を支え、メイドインジャパンという日本ブランドを定着させた功績はあまりにも大きい。1999年10月3日、盛田は2年前に亡くなった井深の後を追うように、静かに息を引き取った。20世紀後半の日本経済の発展を象徴する人物の死であった。



a:4730 t:1 y:3

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional