西岡京治
(にしおかけいじ)
ブータンで最も尊敬された日本人
国際協力事業のモデルとなる 身の丈にあった開発を
神秘の国ブータンで、一人の日本人が28年間、農業技術指導を行った。農作物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。一人の日本人の「無私の貢献」がブータンの未来を拓いた。ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ西岡京治は、日本人の誇りである。
神秘の国ブータンで農業指導
西岡京治は隠れた偉人である。日本人で彼を知っている者は、ほとんどいない。しかし、ヒマラヤの小国ブータンでは、最も有名な日本人である。彼はこのブータンに渡り、28年間という長期間、この国で農業指導に携わってきた。日本の国際協力事業の最も成功した例として西岡京治は記憶されている。
そもそも、日本人はブータンという国そのものをほとんど知らない。神秘の国なのである。人口は100万人程度で、国民の大半は農業で生計を立てている。しかし、国土の大半は山と谷であるため、田畑に使える土地は1割程度。農業自給率が極めて低く、60パーセント程であった。西岡はこうしたブータンの問題に真っ正面から取り組んで、28年間ブータンの農業指導に自分の人生を捧げたのである。
恩師中尾佐助の推薦
西岡京治がブータンと関わりを持ち始めるきっかけは、恩師中尾佐助助教授との出会いからはじまる。西岡は大阪府立大学農学部の学生で、中尾はその助教授であった。彼はかねてから、ヒマラヤ地方の植物の生態に関心を持っており、1958年、日本人としてはじめて、ブータン政府の正式な招きを受けて入国した。
この時、中尾はブータンのドルジ首相から、農業専門家を派遣してほしいとの依頼を受けた。ブータンの農業指導にあたるには、ブータンの人々の生活に溶け込んで、「あの人の言うことなら間違いない」という信頼を受けなければならない。中尾は西岡を推薦することにした。穏やかで謙譲、友誼に厚く、誠実で努力家である西岡は、根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な人材と中尾は考えたのである。
ブータン派遣の話を聞いた西岡の心は踊った。58年に西北ネパール学術探検隊(川喜田二郎隊長)に参加し、ヒマラヤに魅せられていたからであり、そこに住む人々の貧しさに心を痛め、彼らの生活を少しでも豊かにできないものかと考えていたからだ。1964年2月、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から正式な派遣決定の通知が届いた。待ちに待った通知であった。
ブータン到着
1964年4月23日、西岡は新妻里子を伴いブータンに向かって飛び立った。目的地はブータンのパロである。パロはパロ県の中心の町で、西岡が20数年間住み着いて農業指導した町である。
西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向いた。そこで最初の壁に直面することになる。この事務所の局長も職員もインド政府から派遣されたインド人で、全て彼らが取り仕切っていた。西岡は歓迎されていなかった。局長は、ブータンの農業事情を一番よく知っているのは、自分たちインド人で、海の向こうの日本人に何がわかるかと言わんばかりの態度であった。
こうした冷たい歓迎を受けながらも、到着早々、それにめげるわけにはいかない。彼らを納得させるには、実際に試験栽培で見せるしかない。ところが、ブータンにはまともな試験農場が一つもないのである。彼の最初の仕事は、政府に働きかけて試験農場の土地を提供してもらうことであった。
試験農場での野菜栽培
政府が提供した最初の試験農場は、2百平方メートル程の小さなものであったが、とにかくここから始めるしかない。政府はまた3人の少年を実習生として付けてくれた。まだ12、3歳の少年たちである。彼らが、後にブータン農業を担う人材に成長する。
西岡がまず最初に彼らに教えたのは、大根の栽培である。種は日本から持ち込んでいた。畑の耕し、種のまき方、土のかけ方、一つ一つを丁寧に少年たちに実演して見せてあげた。大根は夜と昼の寒暖の差が大きい程、よく育つ。7月末には、それまでブータンでは見たことのない大きな大根が育っていた。1年目の出だしは、まずまずの成果と言えよう。
2年目には、試験農場を水はけの良い高台に移してもらった。広さも3倍になる。この頃になると、試験農場の噂が広まり、知事や国会議員がつぎつぎに試験農場を訪問するようになっていた。その一人の助言で、試験農場で栽培された野菜を国会議事堂前で展示してみた。これが大評判となり、訪問客も増えていった。
2年の任期が切れようとする頃、西岡は悩んでいた。ようやくブータンの農業がわかりかけてきた。ここで帰国してしまえば、当初の目的を果たせないし、この2年間も無駄になる。こんな気持ちで悶々としている頃、国王から任期延長の話が飛び込んできた。願ってもないことである。この2年の努力を国王が評価してくれたのだ。さらに、国王から広い農場用地を提供するという申し出もあった。彼は、「ブータンに来て、これほど嬉しかったことはなかった」と語っている。彼のブータンにかける意気込みは生半可なものではなかったのである。この時作られた農場が、ブータン農業の近代化を担っていくパロ農場である。
稲の増産
1971年は、ブータンの農業史において画期的な年となった。パロ農場以外の農家の田圃で初めて「並木植え」の田植えが行なわれた。並木植えとは、縦と横の一定間隔で苗を植える方法で、日本では昔から行われていた。しかし、ブータンでは勝手気ままな植え方をしているため、手押しの除草機が使えないし、苗と苗の間の風通しも悪く、成育によくなかった。西岡は、これをなんとか改めようとしたが、昔からの農法を変えるのは簡単なことではない。
まだ一部とはいえ、初めてそれを実行する農家が現われたのである。しかし、収穫量がもし上がらなければ信頼は一気に失われる。西岡は祈るような気持ちで稲の成育を見守った。結果は、並木植えに変えただけで、40%の増産。西岡は胸を撫で下ろした。
パロ盆地では、数年のうちに約半数の農家が並木植えに変わり、現在ではパロ盆地の8割は並木植えになっている。その効果を誰もが認めたからである。
シェムガン県の開発
1976年から80年までの4年間、国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わることになる。このシェムガン県は、貧しいブータンの中でも極貧地域で、中央から忘れられた土地と言われていた。人々は昔からの焼畑農法に頼っていた。収穫量が下がると新しい土地に移住して、また森を焼き、畑を作る。それを繰り返す生活だった。
西岡はここに10人のスタッフと一緒に乗り込んだ。一番困難であったのは、この地域の人々を説得することであった。西岡の粘り強い説得が続いた。村人との話し合いは、800回に及んだという。中尾佐助が見込んだ通り、実直で忍耐強い彼の性格がここにおいて生かされた。西岡の考えは、「身の丈に合った開発」である。いたずらに莫大な費用をかけるのはよくない。自分たちのやれることは極力自分たちの手で行なう。最小の費用で最大の効果。西岡の信念である。
古い壊れかけたつり橋をつけ変えるにしても、コンクリート製の橋を作るのではなく、耐久性に優れたワイヤーロープ製のつり橋を作ることにした。費用も安くつくし、地元のつり橋架橋技術も生かされる。これで17本のつり橋が新しく作り変えられた。水田に水路を引くにも、塩化ビニール製のパイプや竹を利用した。合計360本もの水路が完成したという。彼らの手で新たに作られた道路は、全長300キロメートルにも達した。
この開発期間で彼らがシェムガン県に開いた水田は60ヘクタールに及んだ。それまで水田は1・2ヘクタールしかなかったので、なんと50倍に拡大した。極貧地域は驚くべき変化を遂げた。生活が安定した。子供たちが学ぶ学校もできた。診療所もでき医者も定期的に来てくれる。何よりも、定住地ができたことは大きい。村人は口々に西岡にお礼を言った。「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった。お礼をいいます」と。別れの時、村人の多くは涙で西岡を見送った。
「ダショー」の称号
1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。これは県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンでは最も栄誉あることであった。この時、すでに16年の歳月が過ぎていた。76年にシェムガン県の開発に携わるとき、妻の里子は7歳になる娘の教育も考えて、帰国しているので、この4年間は全くの単身での生活だった。
それからさらに12年間、西岡のブータン生活が続いた。1992年3月21日、日本にいる妻のもとに一本の国際電話が入った。ブータンからであった。電話の主はうわずった絞り出すような声で、「ダショー・ニシオカが亡くなられました。昨晩、病院に入院したところ、病状が急変しまして……」。突然の訃報に動転しながらも、「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに「パロでお願いします。ブータンの葬式のしかたでお願いします」と答えた。ブータンで28年間、ブータン人になりきって、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫である。そう願っていると彼女は確信した。
西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って3月26日に行われた。農業大臣が葬儀委員長を務める国葬であった。ラマ教の僧侶の読経が絶えまなく続き、ブータンの山々にこだました。パロ盆地が見渡せる丘に作られた葬儀場で、遺体はしめやかに荼毘にふされた。彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。ブータンでこれまで誰も経験したことのないほど立派で盛大な葬式であった。ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。
西岡はブータンの土地に今なお眠っている。そこは、パロの人々と収穫の喜びを分かち合った土地である。西岡の心の中にブータンが常にあったように、ブータンの人々の記憶の中に今でも西岡京治は生きている。
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