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野口英世

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野口英世 
(のぐちひでよ)

信仰に裏付けられた母性愛
使命感に溢れた教師との出会い  障害をプラスに転じて

  野口英世という一人の天才は、本人の努力や才能だけでは生まれない。彼を取り巻く人々の献身が、彼を支えたのである。「私の栄光も勇気も、母の愛に負うものです」と彼自身が言うとおり、偉大な母の愛に彼は恵まれた。そして教師との間に結ばれた師弟愛。野口は才能と人に恵まれたのである。

世界的細菌学者

  野口英世は、児童向け偉人伝などで必ず取り上げられる人物である。医師であり、世界的細菌学者でもある。日本人で彼の名を知らぬ者はほとんどいない。近々夏目漱石に代わって、千円札に登場するので、さらに広く人口に膾炙することになるだろう。
  野口の人生は、一つのサクセスストーリーでもある。福島県の会津若松に近い猪苗代町の極貧の農家に生まれた。その上、幼児期に左手に火傷を負い、指を開くことができないという身体障害者の身であった。しかし、ずば抜けた頭脳、集中力、忍耐力、それとハングリー精神により、さまざまなハンディを克服して、彼は医師の資格試験に合格する。25歳にして渡米し、アメリカにて世界的な細菌学者と認定されるに至る。次々と医学上の大発見を行い、ノーベル賞の噂まで持ち上がったほどであった。もし、第一次世界大戦が勃発しなかったなら、日本最初のノーベル賞は、湯川秀樹ではなく野口英世がその栄誉にあずかった可能性もあった。
  53年間という比較的短い生涯を閉じるまで、研究者として彼は人生の大半をアメリカで過ごした。生前発表した論文はなんと186篇に達したという。驚異的な数である。しかし、野口英世の業績は、決して彼一人の能力や努力によって達成されたものではない。彼を支えた周囲の人たちの献身のおかげであった。ここでは、彼を支えた数多くの人々の中から、2人を取り上げながら、野口英世の人生を見てみたい。一人は、母の野口シカ、2人目は恩師である小林栄先生。

母シカの決意

  野口英世の人生には、父の影は薄い。ほとんど語られることはない。人はいいが、酒に溺れるとだらしなく、物事の分別が付かなくなる人物であったらしい。一方、母シカは信念と忍耐の女性であった。いかなる困難に直面しようとも、諦めたり、自暴自棄になったりすることは一切なかった。絶望的情況の中にこそ、一縷の光を手探りで見付けだし、出口を探す人生であった。野口英世の人生を語ることは、同時に母シカを語ることであると思えるほどに、母の影響は決定的なものである。
  英世が1歳半の時、悲劇が起こった。英世をわら製の保育篭に寝かせ、シカが家の近くで畑作業をしていたときのこと。突然、耳をつんざくような赤ん坊の悲鳴がシカの耳に飛び込んできた。目を覚ました、英世が篭を這い出して、囲炉裏の火の中に左手を入れてしまったのである。
  村には医者はいない。いても見てもらう金がない。シカがやったことは、ジャガイモをすり潰し、包帯代わりにぼろ布を巻く。それ以外では、毎日お寺で観音様にお祈りをするばかりである。数十日たって、ぼろ布を取りはずし英世の左手を見て、シカは茫然と立ち尽くしてしまった。親指が手首のところにくっつき、中指は掌に粘り着いて離れない状態であったのだ。シカは不憫な息子の将来を案じて、泣いた。そして自分を責めた。もっと注意して見ていてあげれば、こんなことにはならなかったのに。幼い息子に詫びながら、シカはひそかに決意する。「どんなことがあっても、この子を一生養っていく」と。
  絶望から這い上がっていくシカの強さは、母性愛のゆえであることは言うまでもないが、それだけではない。彼女の心を支えてきたのは、観音信仰であった。シカは寂しい少女時代を過ごした。父も母も出稼ぎでいない。祖母と観音様を頼りに寂しさに耐えてきた。「常に観音様が見守っていてくださる」。幼心に築いた彼女の信仰である。こうした信仰に裏付けされた母性愛と献身、そして忍耐。これがシカの全てであった。苦難はシカの信仰をさらに強固なものにし、何ものにも挫けない精神を作り上げることになる。息子の火傷に対しても、「観音様は死ぬべきはずのところをお助け下さった」とむしろ感謝し、ますます観音信仰を深めていく。
  左手のゆえに農業で身を立てることはできない。農機具を握ることができないからだ。シカは勉学の道を行かせようと考えた。それには収入がこれまで以上に必要になる。それには男がやる仕事に就くしかない。町から町へ、商家の重い荷物を背負って20キロの山道を運搬する。男でも容易な仕事ではない。しかし、シカは決して音を上げなかった。
  英世が手の障害ゆえに馬鹿にされ、不登校になった時もあった。シカは泣きながら息子に詫びた。「自分の不注意のせいで本当にすまない。だからこそ負けないで、学問で身を立てるしかねぇ。一生懸命勉強してくれるよう、観音様にいつもお祈りしてきたでねぇか」。泣きながら訴える母の言葉に英世の心は揺さぶられた。英世は12歳。母の苦労が理解できる年頃である。泣きながら奮起を誓った。彼の心に火が付いた瞬間であり、その後生涯にわたって貫かれた猛烈な勉学人生の端緒であった。

小林栄先生との出会い

  野口英世の幸運は、慈愛に満ちた母のもとに育てられたことだけではない。偉大な教師との出会いもあった。29歳の青年教師、小林栄先生。彼は、「会津から国家有為の人材を育てたい」という使命感に溢れた教師であった。
  先生は小学校課程を終えた英世に、より上の高等小学校(高小)に行くことを勧めた。極貧の野口家にとって高小への入学など思いも及ばぬことである。しかし、小林先生は英世に何かしら光る可能性を見いだしていた。「これからは学問第一で、貧しいからといって、卑屈になることはない。私も微力だが、何とか力になってあげよう」。シカは小林先生の励ましの言葉を聞いて、彼の背後に観音様を見た。感激と感謝の涙が滂沱のごとく流れた。農業のできない息子の将来に道が拓けたように感じたのである。
  高小4年の時、英世の作文が小林先生の目に止まった。そこには左手のゆえに傷ついてきた苦悩の日々がつづられている。この手のゆえにどんなに努力しても、一人前にはなれないのではないか。そう思うと目の前が真っ暗になる。どうにかして物を握りたい。いっそ小刀で、5本の指を切り裂こうとまで思い詰めた、とある。小林先生は読みながら、目頭を熱くした。
  何とかしてあげたい。先生はクラス全員の前で英世の作文を読み上げた。教室はシーンと静まり返ったという。「野口を救え!」の声が上がった。先生の提案で、みんなで金を出し合い、野口に手の手術を受けさせることになったのである。生徒と教師達から集まった金は10円ほどであった。現在に換算すれば、数十万円になるだろう。
  手術は成功した。完全に人並みというわけにはいかないが、不自然ながらも各指がばらばらになり、人差し指と中指でかなりの物を握ることも可能になった。このことが英世にもたらした心理的解放感は、想像を絶するものがある。さらに、このことが契機となって彼の進路が決まった。医学に憧れ、医者になる道を踏み出すことになるのである。

24歳でアメリカ留学

  当時、医師になる道は二つあった。帝国大学の医学部を卒業すること。それと医師資格の試験。経済的理由から、英世の目指す道は後者の資格試験取得のコースしかありえなかった。21歳で上京し、持ち前の集中力と猛勉強を続けながら、約1年あまりでこの試験に合格してしまう。受験者80名中、4人の合格である。この試験は前期と後期の二回あり、合格には前期3年、後期7年かかると言われていた。それを1年あまりで受かってしまったのだから、彼の天才ぶりがうかがえる。
  医師の資格試験に合格したとはいえ、医師になるかどうか英世は迷った。グロテスクな左手が患者を恐がらせてしまうと危惧したのである。医学の研究コースに進むしかない。彼は当時最先端の細菌学を修めるため、細菌学の第一人者北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所の門をたたく。北里は英世の英語力を評価して彼を雇うことにした。
  アメリカ留学の野心が湧き起こってきたのは、入所して半年も経たない頃、アメリカから訪問客が研究所にやってきた頃からである。ジョンズ・ホプキンス大学病理学教授シモン・フレキスナーらの一行である。このフレキスナー教授が後に英世の研究上の師となる人物である。北里は、アメリカからきたお客の案内と接待を英世にあたらせた。英語ができるからである。この時の教授との出会いが、英世の運命をもう一段飛躍させる。
  その後、彼は常にアメリカ行きのチャンスをうかがった。多くの借金をし、北里が書いてくれた数通の推薦状を携えて、1900年12月5日、横浜埠頭からアメリカに向かって出発した。24歳になったばかりである。

渡米三箇条

  渡米にあたり、英世が一番懸念したのが母のことである。母シカの苦労を英世は誰よりもよく知っている。その母を置いて渡米することは、年取った母にさらに苦労をさせることになる。渡米すれば、母は倒れる。母を助ければ、自分の人生が名もなく終わる。これは死ぬほどの苦しみであった。この苦悩を彼は小林栄先生に話し、相談した。
  小林先生は、迷いなく言った。「大決心をしたのだから、これはやり通しなさい。お前の留守の間、私が親のことを微力ながら、引き受けてやろう。母のことは心配しないで、世界の桧舞台で活躍しろ」。英世は師の心遣いに感激して泣いた。その後、生涯にわたり、小林先生を「父上様」と呼び、精神の父として慕い続けている。
  小林先生は渡米直前の英世に対し、三つの心得を説いた。第一、母シカの慈愛を忘れないこと。第二、観音様の慈愛を忘れないこと。第三、自分自身の左手を忘れないこと。左手の障害がなければ、ここまでこれなかった。マイナスをプラスに転換できる人生の妙味を語りたかったのだろう。
  英世は小林先生の渡米三箇条を胸に刻み込み、苦しい異国での研究生活を耐えぬいた。小林先生も約束どおり、英世に代わってシカの面倒をみた。1918年の末にシカが66歳の生涯を閉じるまで、その献身は18年間に及んだのである。
  渡米後の英世の研究生活は常軌を逸するものであった。研究に熱が入ると、寝ず食べずの生活が続いた。これを人は野口の「24時間主義」と呼んだ。没入型の彼の性格でもあろうが、多くの犠牲のうえに渡米した責任が彼を常に後押ししたものと思われる。
  彼の渡米目的は、当初かなり野心的なものであった。しかし徐々に浄化され、「栄誉を得ようという考えは全く消え、ただ医学研究のために、一生を捧げようとすること」に変わっていったことを手紙に書いている。
  彼の最後の仕事は当時の難病であった黄熱病。研究途中で、アフリカにて黄熱病に冒され命を落とした。多くの人々に惜しまれた53歳の死であった。野口英世という一人の天才は、多くの人々の献身の結果生み出された。英世は彼らのその献身を裏切ることなく、人類のために献身して死んだのであった。



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