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向学新聞2002年5月号>


大久保利通 
(おおくぼとしみち)

外国に蔑まれない国創り
米欧使節団はモデルを探す旅  衝撃的なビスマルクとの出会い

  今回から、「現代日本の源流」の新連載が始まる。明治維新以降、現在に至るまで日本のリーダー達の多くは、世界に出向き、世界から学んだ。彼らの精神を支えていたものは、祖国愛に他ならない。第一回は大久保利通。彼は欧米で何を見、何を学んだか。

明治の大政治家・大久保利通
  大久保利通といえば、明治維新の三傑と言われている。長州(山口県)出身の木戸孝允と薩摩(鹿児島県)出身の西郷隆盛と大久保である。知の木戸、情の西郷に対して、意の大久保と言われた。維新のもう一人の功労者の岩倉具視は、大久保を称して「確固として動かないところが長所である」と述べている。一度決めたら頑として引かない。相手を粘り強く説得して、それを実現していく。
  時に「非情の人」「冷徹の人」と呼ばれた大久保ではあったが、徳川政権を打倒した後の明治政府内において、大久保の才能は遺憾なく発揮された。常に政権の中枢にあり、リーダーシップを発揮してきた。日本の近代化のために、大久保が尽力したことは、殖産興業(産業振興政策)と官僚制度の確立であった。これらは内政を重視する明治政府の眼目であるとすれば、近代化のために大久保の果たした役割は、木戸や西郷をはるかに凌いでいたことは間違いない。
  維新のリーダー達は皆若かった。西郷が最年長で、維新の時点(1868年)で41歳、大久保は38歳、木戸は35歳であった。彼らの志は一つ、「外国に蔑まれない国を創る」という国家的使命感への熱気に溢れていた。「日本から外国人を追い出せ」と主張する攘夷論者であった彼らが、後に開国論者に変わっていったのは、彼らが軽薄な変節漢であったからではない。むしろ変わらぬ「一つの志」、「祖国愛」の持ち主だったからである。その代表者が大久保である。彼は信念の人であるがゆえ不動の人であり、実際(現実)の人であるがゆえ柔軟の人であった。

近代日本は米欧使節団から
  維新政府が成立して3年後、明治政府は一見暴挙とも言える措置に出た。岩倉具視を団長とする米欧使節団(通称「岩倉使節団」)の派遣である。新国家の整備に最も重要な時期であり、職を失った旧武士階級の不満が爆発寸前の時期でもあった。そんなときに、政府の首脳が大挙して欧米を視察し、2年間近く国内を空けたのである。当時大蔵卿(大蔵大臣)であった大久保も岩倉を支える副使として一行に加わっていた。
  使節団派遣の目的は三つあった。第一は、条約締結国を歴訪し、元首を謁見し礼を修めること。第二に、日本の近代化を進めるため、欧米の制度・文物を見聞し、その長所を学ぶこと。第三は、1872年が条約改正の年であったので、事前に予備交渉をすることであった。(第三に関しては、本来予備交渉であったものが、途中で条約改正に方針が変わった。)
  帰国後の使節団に対する評価は手厳しいものであった。莫大な国費を浪費し、条約の有利な改正に失敗した。何ら成果のない単なる観光旅行だったに過ぎないという批判である。しかし、第二の目的であった「欧米の制度・文物を見聞し、その長所を学ぶ」という点に関して言えば、その後の日本の行方を決定する方向付けがなされたという意味で、その成果を過小評価することはできない。使節団の旅は、日本が「世界に蔑まれない国」になるために、モデルを探す旅であったのである。近代日本は、事実上この使節団によって始まったとさえ言えるのである。その立役者が大久保であった。
  現代の日本は、近代日本の延長にある。戦後の奇跡的繁栄も今日の閉塞状況も、近代日本の出発点にその淵源を見ることができるかもしれない。大久保が欧米で見たもの、そしてそこから学ぼうとしたものは何だったのか。近代日本はもちろん大久保一人の力で築かれたものではない。しかし帰国後、大久保は実質的最高権力者に上りつめ、「大久保独裁」とまで言われた。その彼の近代化政策が、今日の日本の基礎を作り上げたことは、疑問の余地のないことである。

アメリカとイギリス
  使節団の最初の訪問地はアメリカであった。一行がアメリカで見たものは、建国と開拓の精神であり、自主独立の気概であった。イギリスからの独立を果たし、自分たちで国創りを果たしてきたアメリカ人の心意気には、使節団の一行と一脈通ずるものがあった。
  しかしアメリカと日本はあまりにも違いがありすぎた。アメリカは巨大な大陸国家であり、州の自治が行き渡っていた。その上共和制である。日本は、旧時代の幕藩体制を打破して、天皇を中心とする強固な中央集権体制の構築を目指していたのである。
  また、彼らは自由の国アメリカの弊害を見落とさなかった。ニューヨークの繁華街が、夜になれば娼婦の街に化し、風俗不良の都市となり下がる様を嫌悪感を持って見ているのである。また貧富の差という現実に、文明の持つ裏側を知ることになる。後に大久保はロンドンでこっそり貧民窟を見て回り、あまりのすさまじさに「あれを見て、世の中があさましくなった」と嘆いたという話が伝えられている。
  アメリカの次の訪問国はイギリスである。この国はアメリカよりははるかに親近感のある国に思われた。日本と同じ小さな島国であり、君主をいだく国であった。その国が工業と貿易により、世界に冠たる富強の国となっているのである。当初使節団の一行は、イギリスの富強の根源を探ることで、日本の範としようと考えていた。イギリス各地の大工業地帯を訪問しながら、大久保は「イギリスが富強である理由を知るには十分である」と何度も西郷などへの手紙に書いている。
  しかし現実主義者である大久保は、イギリスの高度な文明にあこがれつつも、日本の現状との落差を考えないわけにはいかなかった。日本が範とするには、文明の蓄積の差が歴然としていた。日本が手の届く国ではなかったのである。これは次の訪問国フランスでも同じ印象であった。

ドイツをモデルとした国創り
  イギリスもフランスも日本のモデルにはならないと感じた大久保が、最も注目した国がドイツであった。何よりもドイツは新興の覇気に燃えていた。使節団の一行が、ドイツを訪問したのは、プロイセンの首相ビスマルクがドイツの統一に成功し、ドイツ帝国を建設した直後のことであった。
  イギリス、フランスなどに比べ工業化が遅れたドイツは、強力な産業振興政策を採用した。工業化の先頭を走るイギリスに追いつくため、イギリスの前例を学びながら、その成功例だけを真似た。自由競争の淘汰を待たずして、成功の果実だけを採用するという最も効率的な政策であった。具体的には官僚制度の確立である。イギリスの前例に最も詳しい者が、エリート官僚に他ならないからである。大久保はこうしたビスマルクの政策に「暗示を得た」と述べ、新たな国創りのモデルをドイツに見たのであった。
  ビスマルクは鉄血宰相と呼ばれた。「ドイツの問題は言論によって定まらない。これを解決するのはただ鉄と血だけである」というビスマルクの信念が、ドイツの統一を可能ならしめたのであった。ビスマルクは徹底した力の信奉者である。「真の国力は軍事力である」と主張してはばからなかった。
  現実主義の政治家大久保にとって、ビスマルクとの出会いは衝撃的であった。彼の中で、日本の骨格がほぼ固まった。「富国強兵」の現実的、具体的イメージができあがろうとしていた。それはドイツ型の官僚主導による産業振興政策であり、ドイツ型の兵制改革であった。大久保はドイツ帝国の制度をそのまま日本に持ち込もうと考えたのである。

負の遺産
  大久保の狙いは的中した。日本はドイツをモデルとして、官僚主導の産業振興政策を推進してきた。その結果、工業化と軍事の近代化に成功し、世界最強国の一つに日本が数えられることになった。しかしその一方では、負の遺産も残すことになる。
  一つは、今日の官僚制度の欠陥である。官僚機構のタテ割り行政の弊害、過剰なエリート意識、賄賂、汚職など数え上げればきりがない。二つ目には、近代化された軍事力を持ってアジアの隣国に触手を伸ばしたことである。人に人格があるように、国にも国格があるはずである。国の力とは、軍事力だけでもなく、経済力だけでもない。徳力のようなものもあるということに気づくには、明治の政治家達は若すぎたのかもしれない。
  こうしたマイナス面を勘案したとしても、なお大久保の政治家としての力量は傑出していた。ビジョンを明確にし、信念に基づいてそれを貫いた。そればかりか、実に潔癖であり、蓄財の念は全くなかったと言われている。
  48歳で暗殺された後、彼の遺産を調査したところ、わずかな現金と膨大な借金が残るだけ。所有の不動産は全て抵当に入っていた。生前彼が鹿児島県庁に寄付した金を返還してもらうことによって、かろうじて遺族の生計が成り立つようになったという。現代の政治家の所業を見て、大久保は何を思うだろうか。



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