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渋沢栄一

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渋沢栄一 
(しぶさわえいいち)

武士道の精神を経済で生かす
2年間のフランス留学  軍人と商人の対等関係に驚き

  明治時代、今日の日本経済の基礎が確立された。そのために果たした渋沢栄一の役割は絶大なものであり、他を圧倒している。江戸末期、渋沢はフランス留学を経験した。そこで彼は資本主義の制度、精神を徹底的に学んで帰ってきた。

道徳と経済の一致
  前回、この連載で大久保利通を扱った。明治以降の日本の官僚システムを築き上げた大政治家であった。今回取り上げる渋沢栄一は経済界の巨人である。明治の代表的経済人と言えば、渋沢栄一と三菱の創業者岩崎弥太郎の二人を誰もが躊躇なく上げるであろう。
  しかし、商工会議所を作ったり、銀行を始めとする日本の金融制度の確立に尽力したり、自ら五百以上の会社の運営に関与したことなどを勘案すれば、岩崎よりもはるかに大きな影響を経済界に残した人物である。「銀行」という言葉を発明したのは、渋沢栄一であることからも、彼の影響力の大きさがうかがえるのである。
しかし彼の偉大さは、その経済人としての影響の大きさばかりではない。彼の信条そのものにあると言ってもいい。経済界で活躍する彼の一貫した信念は、「道徳と経済の一致」であった。彼は常に「論語とソロバンを一致させなければならない」と説いていたという。
  ライバルの岩崎は、儲けるために手段を選ばないといった「事業の鬼」に撤した経済人であった。それに対し、渋沢は武士道の精神を経済で生かす道を考えていた。彼にとっての武士道とは、「人として、歩まなければならない道」であり、「踏み外してはならない道」のことであった。つまり精神を律する道徳心と言ってもいいだろう。彼はこうした信条を死ぬまで守り通した。
資本主義の末路が欲望刺激主義であり、現代日本社会がその毒牙にすっかり汚染された社会であるとすれば、渋沢栄一の問題意識は、実に今日的である。

幕末にフランスへ留学
  渋沢栄一は、不思議な運命をたどった男である。農民の子でありながら、武士になる。それも徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜の家臣。その男が徳川幕府を倒した明治政府に用いられ、その後日本の経済界を背負って立つ人間になるのである。
さらに彼は徳川時代末期にヨーロッパに留学した数少ない日本人の一人であった。主君である慶喜の弟昭武のフランス留学にお供として付き添い、フランスに2年近く留学した。この時、フランスやイギリスで見聞したもの、学んだものが彼の将来を決定づけるものになったのである。
  昭武と共に、渋沢が留学した当時の日本は、まさに幕末の激動期であった。討幕運動が薩摩、長州を中心として展開し、そこにヨーロッパ列強が加わり、先の見えない混沌状態が続いていた。イギリスは徳川幕府を見限り、「日本の外交権は天皇にある」と言って、天皇中心の新しい政府を目指していた薩摩藩や長州藩に肩入れしていた。一方フランスは、イギリスとの対抗上、徳川幕府の外交権を主張して、幕府に肩入れしていたのだ。
  そのフランスが1876年パリ万国博覧会の主催国であったため、日本にも参加を呼びかけた。将軍慶喜の弟昭武がその代表に選ばれ、ついでに数年間昭武は、渋沢と共にパリで留学生活をするという計画であった。しかし時代の激動は、彼らの長期留学を許容してはくれなかった。67年1月に横浜港を発った彼らではあったが、翌年には徳川幕府崩壊の報をフランスで受けることになった。その年の11月には帰国を余儀なくされた。彼らの留学生活は約2年間で終止符を打つことになる。
  渋沢は幕末の激動期に「パリにいて良かった」と常々感じていた。もし日本に残っていたら、徳川慶喜のブレーンの一人だということで必ず殺されていたであろう。事実、日本に残っていた慶喜のブレーンは全て暗殺されてしまっていた。

二人のフランス人顧問
  使節団一行がヨーロッパに向かう途中、おもしろいエピソードが伝えられている。彼らの船がスエズに到着して、そこからアレキサンドリアまで汽車で移動している途中のできごとであった。一行が汽車に乗るのはもちろん初めて。ガラスというものをそれまで見たこともなかった。一人が窓の外を見ると景色が透き通って見えるので、何もないものと思って、みかんの皮を窓から捨てようとした。しかしそこには透明のガラスがあるのだから、皮は車内に跳ね返ってくる。不思議に思って、また繰り返す。こんなことが何度か続いた。そこにいた西洋人が注意をしたが、言葉がわからない。それで喧嘩ざたになったという。こういうエピソードが渋沢の回顧談に残されているほどに、一行にとってヨーロッパは見るもの、聞くもの、みな珍しいことばかりであった。
後の渋沢の活躍にとって忘れてはならない二人のフランス人がいる。一人は銀行家のフロリヘラルト、もう一人は軍人のビレット。徳川幕府がフランス政府に頼んだ特別顧問である。一行の面倒を見るために雇われていた。とくにフロリヘラルトは、幕府から名誉総領事の立場を与えられて、積極的に彼らの面倒を見たという。
渋沢は、このフロリヘラルトから多くを学んだ。銀行のことはもちろん、株式取引所、株式公債、有価証券など金融にまつわるほとんど全てを彼から習得した。この時に得た知識と経験が、後に日本の金融制度、株式会社制度を確立する上で、大いに役立ったことは言うまでもない。
  しかし彼は単に資本主義の制度的な側面ばかりを学んだわけではなかった。彼が驚いたのは、この二人の顧問達の関係であった。一人は銀行家、一人は軍人。日本ではこの二人の間の身分格差は決定的である。士農工商が確立していた日本では、銀行家はあくまで商人であるので、社会の一番低位に位置する。軍人は武士であるので、一番上である。
  ところが、この二人のフランス人の間には全く上下の意識がないのである。全く対等であった。銀行家フロリヘラルトは軍人ビレットにずけずけとものを言う。ビレットは腹を立てるわけでもなく、それを謙虚に受け入れる。日本ではおよそ考えられない光景であった。彼は新しい発見をする。日本では、政治といえば武士が担うものであった。しかしヨーロッパでは必ずしもそうではない。商人が政治を主導することもあるのである。後の大実業家・渋沢栄一の本性がむくむくと頭をもたげてきた。

新政府に奉仕
  渋沢が帰国したのは、徳川幕府が倒れ、明治の新政府が出発した直後の混乱期である。徳川慶喜は静岡藩に退き、地方の一大名に成り下がっていた。渋沢は静岡に赴き、慶喜に留学の詳細を報告したのち、慶喜のもとで官に仕える道を頑なに辞退し、民の立場で静岡藩の発展のために貢献する決意を固めていた。フランスで学んだ実業(様々な経済的事業)の知識と経験をまず、静岡藩で実験しようと心に決めていたからである。
静岡藩で一定の成果を上げた渋沢を明治政府は見逃しはしなかった。日本は彼を必要としていた。説得にあたったのは、大蔵省の大隈重信である。渋沢は静岡で商人の共同体組織である商法会所を設立し、その評判が政府にも知れ渡っていた。これは彼の「道徳と経済の一致」という考えを実現するために作られた組織であった。
  商業は一歩間違えば、目先の利益追求だけに目を奪われ、人々の幸福にとって阻害要因になることを彼は危惧していた。これを避けるには、商人が共同体を組織し、手を取り合って運営すべきであるというのが彼の考えである。これが商法会所を設立した彼の信念であり、後に商工会議所として商工業の発展に大きく貢献することになる。
  大隈の説得は、渋沢が静岡で作った商法会所を日本全体に及ぼしてほしいというものであった。彼は新政府に入るつもりは全くなかった。旧幕臣であったからであり、民で実業の世界で生きる決意をしていたからでもある。しかし大隈の説得は彼の決意を鈍らせた。小さい頃から、国家のために「何事かなさんとする志」を持ち続けてきた彼の中の熱い思いが大いに刺激され、国家に奉仕する道を選択するに至ったのである。

実業の世界へ
  渋沢の大蔵省での官僚生活は3年半に及んだ。しかし台湾を征討し国威高揚を主張する外務省と財政の健全化を主張する大蔵省の対立の中で、渋沢は政府を去ることにした。このことは渋沢にとって、まさに「篭から解き放たれた鳥」であった。フランスで学んだ実業のノウハウを政府を通して実現しようにも、政治の論理がそれを妨害することが少なくなかった。
  大蔵省を辞任することで、彼は自由を得た。日本実業界の振興のために活躍する場を得たのである。水を得た魚のように、彼の本領が遺憾なく発揮されることになるのである。驚くべきことに、この時彼はまだ33歳であった。92歳まで生きた渋沢の実業界への貢献は、実に60年間に及ぶことになる。



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