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鈴木鎮一 
(すずきしんいち)

バイオリンによる才能教育
育て方次第で立派に育つ  みんなが日本語を話している!

  バイオリンによる情操教育「スズキ・メソード」は、鈴木鎮一の音楽と子供への愛情から生まれたものである。留学先ドイツでクリングラーから「魂の演奏」を学び、帰国後、子供たちへのバイオリン教育を開始する。それは一つの発見から始まった。

スズキ・メソード

  鈴木鎮一はバイオリニストである。しかし演奏家としては決して一流ではなかったが、バイオリンを通して人間を育てる教育者として知られている。彼は自分が開発したバイオリン教育を「才能教育」と名付け、「才能は生れ付きではない。どの子も育て方一つで立派に育つ。人は環境の子である」と主張して譲らなかった。「スズキ・メソード」とも言われる彼の才能教育は、現在世界45ヵ国に40万以上の生徒を抱えており、これまで優秀な演奏家を多数輩出している。
  鎮一が常日頃、「音楽家を育てることが第一の目的ではない。立派な人間を育てたいのです」と口にしていた。「純真で美しい心の子供が、やがて疑惑・不信・不正・憎悪・闘争の影を宿した大人になっていく。なぜだろう。美しい心のままに育てることはできないものか」。才能教育を始めた頃の彼の問題意識であった。全ての問題は教育にある。子供の持っている美しい心、生命力、才能をそのまま育ててあげたい。彼の教育理論の原点は、子供への愛情と人間愛に溢れたものであった。

トルストイに学ぶ人間愛

  鈴木鎮一のバイオリンとの出会いは、その誕生から始まった。1898(明治31)年、鎮一が名古屋に生まれた頃、父政吉はバイオリン製造業を営んでいたのである。しかし、彼にとってバイオリンはオモチャの一種であって、決して楽器ではなかった。
 そんな彼に、17歳の時一つの転機が訪れた。たまたま家に蓄音機が入ったときのこと。そこから流れてきた音楽がミッシャ・エルマンが演奏するシューベルトの「アベ・マリア」。彼はすっかり魅せられてしまった。「私はその甘美な音に魂も奪われる心地でした。オモチャのように思っていたバイオリンがこんなにも素晴らしい音を出すとは」。
  これ以来、確実に音楽の眼が開かれ、オモチャでしかなかったバイオリンを楽器として手にすることになる。
  同じ時期、もう一つの重要な出来事が起こった。ある日、父のバイオリン工場の事務室で、当時珍しかった英文タイプをポンポンと打っていたずらをしていた。そこに主任が現れて、「紙をはさんでないとタイプを打ってはいけませんよ」と鎮一をたしなめた。とっさに彼は、「まねをしているだけなんです」と言ってごまかした。
  ただそれだけのことなのだが、鎮一は激しい自己嫌悪に襲われた。自分自身に対する激しい後悔と憤りの念。なぜ素直に謝らなかったのか。なぜ偽ったのか。やり場のない気持ちを抱えたまま、一軒の本屋に入り、たまたま手にした本が、『トルストイの日記』であった。何気なく開いてみると、次のような文章が目に飛び込んできた。「自分を欺くことは、人を欺くことよりも悪いことである」。
  体に戦慄が走り、全身がガタガタと震えるのを覚えたという。自分の内面を見透かすかのようにこの言葉が、鎮一の胸を射抜いてしまった。トルストイとの出会いの瞬間であった。以来、トルストイの思想が鎮一の中で内面化されることになる。「良心の声は神の声である」と言うトルストイ。彼はこの思想の内に生きようと決意する。

ベルリン留学へ

  1921(大正10)年10月、23歳の鎮一はベルリン留学のため神戸を出発した。ベルリンに到着して3ヶ月間、毎晩のように音楽会を聴いて回ったという。名声や人の評価に頼らず、直接自分の耳で聴いて心から納得する師を選びたかったからである。
  3ヶ月経った頃、カール・クリングラーの演奏会の誘いを受けた。その演奏を聴いた時の感動を彼は、「それは素晴らしい魂の音楽でした。私の心を美しくやわらかく包み、そして静かに語りかけました」と語っている。その夜、彼はクリングラーへの弟子入りを心に決めた。
  クリングラーが常に問題にしたことは、技術的なことではなく、音楽の本質、芸術の根源に関することであり、人間の本質へのアプローチであった。鎮一は、クリングラーの奏でる魂の演奏は、彼の人格、生き方そのものから醸し出される何ものかであることを知り、それを吸収しようとした。
  後にクリングラーはベルリン音楽学校を追われるはめになる。この学校には彼の師であるヨーゼフ・ヨアヒムの像が据えられており、彼がユダヤ人であることから、ヒトラーがその像の撤去を命じたのである。しかしクリングラーはそれに断固として抗議し、この像をひとり敢然として守ろうとしたのである。

どの子も優れた才能を持つ

  鎮一のドイツ留学は8年の長期に及んだ。ドイツ人女性(ワルトラウト)と結婚し、ヨーロッパでの永住も考えていた時期、突然、母危篤の知らせが届いた。新婚4ヶ月の二人は、あわただしく帰路についた。
  日本で彼らを待ち受けていた運命は、なまやさしいものではなかった。帰国後まもなく母は亡くなり、その翌年には父のバイオリン工場は世界大恐慌のあおりで倒産。父は全財産を失った。鎮一は妻を伴い名古屋を出て、東京での生活を始めたが、生活は困窮していた。ステージやラジオでの演奏活動で入る収入は高が知れている。自らの愛用のバイオリンやドイツから携えてきた妻のピアノも、売却せざるをえなかった。
  そのころ、一つの転機が訪れた。江藤俊哉という4歳の子供が父親に連れられて鎮一のもとにやってきた。バイオリンを習わせたいと言うのだ。鎮一は困惑した。「こんな幼い子にどうやってバイオリンを教えればいいのか」。
  明けても暮れても考え、思い悩んでいた頃、ある日突然一つの解答が与えられた。「あっ!日本中の子供が日本語をしゃべっている」。ちょうど友人たちと音楽について語り合っている時だった。突然立ち上がって、叫びだした鎮一に友人たちはゲラゲラ笑い出した。「それがどうした。当たり前じゃないか」と言うのだ。
  語学をマスターすることは大変なことだ。それは鎮一自身も留学で経験してきたことである。しかし、どの子もみな母国語を自由自在に、何の苦もなく話している。これは驚くべき才能ではないか。どの子も実は優れた頭脳の持ち主なのだ。今まで、どうしてこんな平凡なことに気がつかなかったのか。
  この発見は、幼児にバイオリンを教える彼の基本的な考えとなり、その後の人生を決定づけるものとなった。以来、彼は全ての子はよく育つとひたすら信じ、これを「才能教育」と称して、落伍する子供を出さない教育運動を続けることになる。

3歳の豊田少年

  江藤俊哉に続いて、その後子供たちが次々と鎮一のもとを訪れた。豊田耕児もその一人。父親に連れられて鎮一の門をたたいたのは、なんと3歳の時であった。しかし、鎮一にはもう迷いはなかった。ほどなく開かれた演奏会で3歳の耕児が演奏したのは、ドボルザークの「ユーモレスク」。16分の1に縮小したバイオリンによる見事な演奏に会場はどよめいた。
  翌日の新聞の見出しは、顔写真付きで「天才児現る」。これには鎮一は大いに不満であった。事前に記者たちに「天才という生まれつきの才能はない。天才とは、そのように育てられた人間に対する尊称である」とさんざん念を押していたからである。
  1941年太平洋戦争の勃発。鎮一の音楽活動は一時期中断を余儀なくされた。東京にいるのは危険である。自分が東京にいれば教え子たちも疎開しようとしない。鎮一は木曾(長野県)への疎開を決断した。
  戦争が終わった直後、気がかりな情報が寄せられた。3歳で入門した豊田耕児は6歳で母を亡くし、父と二人暮らしであったが、その後父親も不慮の事故で死亡した。その彼の行方がわからない。両親を失った幼い子供を放っておくわけにはいかない。鎮一の耕児探しが始まった。しかし東京は焼け野原、消息はない。
  鎮一はNHKラジオの尋ね人コーナーに放送をお願いした。2ヶ月ほどして、浜松市から手紙が届いた。耕児は浜松の叔父に引き取られていたのである。鎮一は木曾の自宅に耕児を呼び寄せた。3年ぶりの再会、耕児は11歳になっていた。その後、耕児は鈴木家の一員となってバイオリンのレッスンに精を出すことになる。
  先の江藤俊哉は、後にアメリカカーティス音楽院教授となり、現在は桐朋学園大学院大学長を務めている。豊田耕児は、ドイツで最高級のベルリン・シンフォニー・オーケストラの第一コンサートマスターを務め、現在は鎮一が作った才能教育研究会の会長となっている。

巨匠カザルスの感動

  鎮一の才能教育が30年以上過ぎた1961(昭和36)年4月6日、東京文京公会堂のステージの上に、5歳から12歳までの子供たち400人がずらりと勢揃いした。20世紀が生んだ最も偉大な芸術家の一人チェロ奏者カザルスの前で演奏するためである。カザルスはホールに入るなり、ステージ上の子供たちを見て、「おお……、おお……」と感嘆の声を上げた。
  カザルスが席につくなり、子供たちの演奏が始まった。「キラキラ星変奏曲」。400人の子供たちが生き生きと巨匠の前で演奏する。カザルスの隣りで座っていた鎮一の耳にカザルスの感激の声が届いた。「おお……、おお……」。演奏はビバルディ、バッハに及び、巨匠の感動は頂点に達した。目に涙を浮かべ、口をへの字に結んで押し黙ってしまった。子供たちの演奏が終わるや否や、カザルスの両手が伸びてきて鎮一を抱きしめた。涙が鎮一の肩を濡らしたという。
  ステージに上がったカザルスは、「私は、世界のどこにおいても、このような愛情と誠実の心に遭遇したことはない」と述べ、感動を隠そうとはしなかった。長年才能教育に取り組んできた鎮一の教育が世界に認められた瞬間であった。
  1998(平成10)年1月26日、鎮一は松本市の自宅で妻に看取られながら、99歳の生涯を終えた。鎮一を父と慕った豊田耕児はドイツから駆けつけ、告別式でシューベルトの「アベ・マリア」を演奏した。これは鎮一が音楽に目覚めるきっかけとなった思い出の曲である。
  体が動かなくなるまで、鎮一は1日数人の生徒のレッスンを指導し、講演に飛び回るライフスタイルを変えなかったという。自身の子供には恵まれなかったが、子供たちを愛し、その能力を信じ、彼らを育み、世に送り出した。「スズキ・チルドレン」と呼ばれた彼らは、まさしく鎮一の子供になったのだ。愛に生き教育に捧げた生涯であった。



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