高橋是清
(たかはしこれきよ)
逆境と失敗が人間を鍛える
「七転び八起き」のダルマ蔵相 国家に尽くす官吏のあり方
第一次世界大戦後から、第二次世界大戦に至る時期の日本は、未曾有の経済危機に襲われていた。先の見えない袋小路からの脱却という重い課題を背負って登場したのが、高橋是清である。逆境に負けない彼の強靱な精神力は、留学体験で培われたものである。
大蔵大臣を7回経験
高橋是清は、明治後期から大正、昭和初期にかけて活躍した日本の政治家である。総理大臣にまで昇りつめたわけであるから、一流の政治家には違いない。しかし、彼の名声は政治家としてよりも、財政家としてのほうが、はるかに轟いているのである。
1913年に60歳で初めて政界入りした直後に、山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任して以来、1936年二・二六事件で軍の青年将校に暗殺されるまでの間に、実に7回も大蔵大臣を経験した。この時期の日本は未曾有の経済危機に直面していた。1920年に第一次世界大戦後の経済恐慌に襲われ、27年には金融恐慌、さらに30年、31年には世界恐慌の荒波に襲われた。この間、高橋は大蔵大臣として日本の経済、金融政策の舵取りを見事にやってのけた。
高橋は、大蔵大臣としてたまたま何度も経済危機に直面したわけではなかった。経済の破局的局面になると就任要請が舞い込み、彼は救済者として登場したのである。危機に対する彼の的確な分析、迅速果敢な対応が、幾度も日本を危機から救出した。危機に臨むリーダーに求められる資質は強靭な精神力である。批判や罵倒に負けない忍耐力、名利を離れた公共心、また未来を信ずる楽天主義。高橋にはこれら全てが備わっていた。
これらは天賦の才とばかりは言えない。彼の苦難に満ちた数奇の運命が彼を育てたのである。ここでは、彼の生い立ち、留学体験、それと南米体験に焦点を絞って、高橋是清という人物の人間形成の過程を見てみたい。
私生児として
高橋の数奇の運命は誕生その時から始まった。彼は私生児として生まれたのである。母の北原きんは幕府の絵師川村庄右衛門の家の侍女であった。両親が離別していたので、おばの家に預けられていて、行儀見習いのために川村家に奉公するようになったのである。きんは16歳の時、主人である庄右衛門の子を宿してしまった。こうして生まれた子が高橋是清である。
庄右衛門は是清を自分の子として認知したが、すでに家には6人の子がいたので、彼を里子に出すことにした。生後3、4日にして仙台藩の武士・高橋覚治是忠の家に預けられることになった。
是清が3歳になったばかりの頃、大きな転機がおとずれた。高橋家の知り合いの裕福な菓子屋から是清を養子にほしいという話があったのである。実家の川村家には異存はなかったが、これに断固と反対したのが、是清の義理の祖母にあたる高橋家の喜代子であった。「2年も育ててきたこの可愛い子を武士ならともかく、町人へやるのはかわいそうだ。自分の家へもらったほうがよい」と言って菓子屋の申し出を断り、無理やり高橋是忠の実子として届け出をすましてしまった。
高橋是清は後に自伝の中で、人間の運命の不思議さを述べている。「私が菓子屋の養子となっていたら、あるいは一生菓子屋で終ったかもしれぬ。少なくとも今とは全然異なった立場にあったに相違ない」と。
高橋の生涯を見るとき、この祖母喜代子の存在が彼の精神を深いところでどれほど強く支えていたかと思わざるを得ないのである。喜代子の是清に対する愛情は生涯変わることはなかった。高橋には私生児にありがちな劣等感や性格の暗さがまるでないと、彼を知る者は誰もが口を揃えて言う。あけっぴろげで、思ったことはずばりと語るストレートな性格。しかし、いつもにこにこしているので、憎まれることがない。また無欲であまりものごとにこだわらず、恬淡としていたという。こうした彼の楽天的性格は祖母喜代子の献身的な愛情によって育まれたものであろう。
丸顔で大柄の風貌のゆえ、ダルマ蔵相と呼ばれて親しまれた。晩年、軍部に捨て身でものを言うこの老人は大衆から惜しみない喝采を浴びた。ダルマのあだ名の通り、彼の人生は「七転び八起き」そのままであった。不屈の精神は、逆境の中でこそ芽生えるものである。
アメリカ留学へ
幕末、仙台藩は外国の事情を学ばせるため、若い武士をアメリカへ留学させることにした。そのためには、まず横浜で英語の勉強をさせなければならない。そこで選ばれたのが、高橋是清と鈴木六之助の二人。共に11歳の少年であった。
横浜で彼らは、英語塾を開いていたヘボン博士や宣教師バラー氏の夫人について、約2年間英語をみっちり習った。そして彼が13歳になった1867年7月、ついにアメリカ留学が実現した。しかし彼ら二人はまだ余りにも幼いので、同行した米国人ヴァンリードに彼の学費が託されることになる。この米国人は横浜の商館主で、サンフランシスコに両親が住んでいた。高橋と鈴木は、サンフランシスコのこの老夫婦の家に住み込むことになっていたのである。
高橋の苦渋の留学生活は、この老夫婦との出会いから始まった。ヴァンリード老夫妻は最初のうちは人が良さそうに見え待遇も悪くはなかった。しかし時間が経つにつれ、待遇はすっかり変わってしまった。家の料理番や部屋の掃除など使い走りをさせられたばかりではなく、食物も粗悪になり、そのうえ学校にも行かせてもらえなくなった。これでは約束がまったく違う。彼は憤慨して、「こんなにこき使われるために来たのではない。約束が違う」と言って働かなくなった。夫人はこんな高橋に見切りをつけてしまったのである。
奴隷として売られる
高橋を見限ったヴァンリード夫人は、オークランドに住む知り合いの富豪ブラウン夫妻の家に住んではどうかと高橋に提案した。彼が行ってみると確かに大きな屋敷で、すでにアイルランド人と中国人の召使がいる。これなら以前のように、こき使われるようなこともないように思われた。それにブラウン夫妻も親切そうに見えたので、彼はオークランドに住み替えることにした。
この住み替えのため、彼は一通の書類にサインをさせられた。まだ14歳の少年である。書類の内容などわかるはずがない。ヴァンリード夫人の「ブラウン家に住み込めば、自由に勉強ができるという内容だ」という説明を鵜呑みにして喜んでサインしてしまったのである。ところがこの書類は実はとんでもない身売りの契約書であることに、後になって気づかされることになり、契約上ブラウン家から抜け出れないことが判明した。
困り果てた高橋は当時幕府からサンフランシスコの名誉領事を嘱託されていたブルークスにことの顛末を話し、契約破棄の調停を依頼した。ブルークスのはからいで、ブラウン家がヴァンリード家に支払った50ドルを支払うことで身売りの契約が破棄され、なんとか一件落着した。
その頃、日本は徳川幕府が倒れ新しい政権が樹立した。その報に接し、高橋をはじめとする留学生たちは帰国を決意する。サンフランシスコから乗船し、1868年12月横浜港に到着した。高橋のアメリカ体験は1年数か月という短い期間ではあったが、辛く苦しい思い出であった。それだけにまた彼の強靭な精神力を養う最良の訓練であったことも事実なのである。
信念に殉ずる
帰国後、高橋は一時英語の教員となり、後に文部省、続いて農商務省に奉職した。しかし順風満帆というわけにはいかなかった。36歳の時、ペルーの銀山を経営する話が持ち上がった。農商務省の次官の強い薦めがあったのである。彼は特許局の局長という安定した立場を捨て、ペルーに人生の夢を託すことになる。
ところが、いざペルーに行ってみるとその銀山は数百年間掘り尽くされた廃坑であった。まんまと一杯食わされたわけである。この失敗で彼は家屋敷を売却せねばならない羽目に陥ってしまった。
ペルー行きを薦めた農商務省の次官は責任を感じて、彼の就職のため奔走した。県知事や郡長などの話があったが、高橋は断った。彼の弁はこうである。これまで彼は衣食に困っていなかった。それ故、上官の言うことでもし正しくないと思ったときは、敢然と異議を申し立てることができた。いつでも官を辞す覚悟ができていたからだ。しかし、衣食のために苦慮せねばならない身分の今、到底以前のように精神的に国家に尽くすことはできない。彼は官僚のあるべき姿勢にあくまでこだわっていたのである。
こうした高橋の生き方は生涯変わることがなかった。晩年、軍部の際限のない軍備拡張要求に高橋は強く抵抗した。国防のみに専念して、悪性インフレを引き起こしてしまえば、国家の信用は崩れてしまう。この無形なる信用の崩壊は、結果的に国防をも危うくするというのが高橋の信念であった。1936年2月26日、その信念の故に青年将校らに暗殺された。信念に殉じた83年間の生涯であった。
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