向学新聞2003年5月号>


津田梅子 
(つだうめこ)

女性の地位向上に教育不可欠
少女時代 年間米国留学 権利要求の前に自ら高める

津田梅子は7歳でアメリカに留学し、11年間アメリカに学んだ。帰国した梅子は、教養ある女性を必要としない日本社会に落胆する。自ら向上しようとしない日本女性に怒りすら覚えた。梅子は、日本女性の地位の向上のために女子教育の必要性を痛感する。

7歳でアメリカ留学
 1871年、明治維新政府は欧米の先進文化に学ぶために、政府の中枢メンバーを欧米に派遣した。岩倉使節団と呼ばれた一行は、岩倉具視、大久保利通をはじめとする政府の要人が約2年間、欧米を視察して、新しい日本の国造りのモデルを探そうとした。実は、この使節団に5人の女性が加わっていた。その一人が今回の主人公、後に津田塾大学を創設し、日本の女子教育の先駆者となった津田梅子である。梅子は5人の中で最年少で、太平洋横断中に7歳の誕生日を迎えた。5人の女性は、乗船時の年齢が14歳(2人)を最年長に、11歳、8歳、6歳という少女たちであった。
 女子留学は、北海道開拓使次官の黒田清隆の提案で実現したものである。開拓には有能な人材が必要であり、有能な人材を育てるには教養ある母親が不可欠である。そのために女子教育を振興すべきであるという趣旨に基づいていた。具体的には、女子を北海道の開拓のモデルであるアメリカに留学させ、アメリカ女性を現地で観察し、その素晴らしさの秘密を探り、アメリカ式の教育を身につけ、帰国後北海道開拓の良き母になってもらおうということであった。驚くべきことに、彼女たちに与えられた留学期間は10年間という長期に及ぶものであった。
 それにしても梅子は若すぎた。船が出る横浜港では、見送りに来ていた人々が、梅子の姿を見て「あんないたいけな娘をアメリカにやるなんて。母親の心はまるで鬼ではなかろうか」などと囁き合っていたと言われている。梅子の知っていた英語は、「イエス」「ノー」「サンキュー」程度であった。父親は、英語の入門書とポケットサイズの「英和小辞典」を娘に持たせ、行李の中には娘を慰める絵草紙、人形なども入れて、娘を港から送り出した。当時のワシントン弁務公使であった森有礼は、5人の少女を迎えたとき、梅子を見て「どうすればいいんだ。こんな幼い子をよこして」と悲鳴を上げたと伝えられている。

父親のアメリカ体験
 梅子の父親津田仙は、西洋に非常に大きな関心を持っていた。彼が属していた佐倉藩の藩主は、「オランダかぶれ」と噂されるほど西洋的なものを積極的に導入していたからである。しかし、決定的な影響はペリー提督率いる黒船を直接目にしたことであった。17歳の仙は、当時江戸湾警護のための砲兵隊に配属されていた。目の前に現れる黒船の威力。多感な17歳の青年は圧倒された。西洋文明の象徴ともいえる黒船のインパクトは、絶大であった。その後の仙の人生を大きく変え、その影響は梅子に及ぶことになる。
 仙は行動の人である。まず江戸に出てオランダ語を学んだ。その後、横浜に行き、英国人の医師のもとで英語を学び始める。彼のこうした努力が認められ、当時幕府がアメリカに使節を派遣するときの随員に選ばれた。1867年のことである。つまり、梅子の父親仙は、梅子に先立ってアメリカを体験していたのである。
 その後、北海道開拓使の嘱託となった仙は、黒田清隆など政府の要人と知遇を得ることになる。そんな折り、仙は開拓使事業の一環として女子留学生募集の話を聞く。行動の人、仙がこの機会を逃すはずがない。娘に何としてもチャンスを与えてあげたかった。娘の年齢は問題にならない。むしろ若ければ若いほど吸収する上では、都合がいいと考えたことだろう。

ランマン夫妻
 7歳になったばかりの梅子にとって、幸運だったのはランマン夫妻に預けられたことだった。夫妻は普通親が子供に与えうるあらゆるものを梅子に与え、10年以上の長きにわたって梅子を見守り、その成長の芽を大きく育んだ。その影響の大きさは実親のそれよりはるかに勝っていた。
 ランマン夫妻が梅子を預かるようになって、1年以上過ぎた頃、ランマン夫妻を感動させるできごとが起こった。梅子がキリスト教の洗礼を受けたいと申し出たのである。夫妻が説得したわけでも、勧めたわけでもなかったので、夫妻の感動はひとしおであったと言う。
 梅子はランマン夫人や周囲のアメリカ女性の姿を見ながら、アメリカ女性は聖書から道徳を学んでいることを発見する。アメリカ人女性のような立派な女性になることが、主要な留学目的だったことを考えれば、梅子がキリスト教徒になろうとしたのは、自然の成り行きだったであろう。幼心のうちに女子留学の使命感がはっきりと意識されていたのである。

帰国後の落胆
 アメリカ留学の10年が過ぎ、北海道開拓使から帰国の命令を受けた。梅子は滞在を1年延期し、その後、計11年間のアメリカ生活を終え帰国した。1882年の11月のことで、梅子は18歳になろうとしていた。滞在延期の1年の間に、開拓使は資産払い下げにまつわる不正スキャンダルを起こし、解散してしまっていた。つまり、女子留学を計画した役所そのものが消滅したのである。
 夢をふくらませながら帰国した梅子は、たちまち落胆と焦燥の日々を過ごすことになる。開拓使が解散になったこともあって、梅子に適当な仕事がないのである。男子留学生は2、3年の修学で帰国後かなりのポストについて、将来が保証されていた。しかし、女性の才能を生かす社会的なポストは皆無といってよかった。まして、梅子は日本語をほとんど忘れていたのである。
 父親の仕事や家事を手伝いながら、梅子は悶々とした日々を過ごしていた。ピューリタンの家庭で10年以上の長期に渡って育てられた梅子にとって、勤勉と奉仕は一つの義務である。国のお金で、アメリカの一流の学校に学んだのである。それを日本の発展のために役立てなければならない。律儀な梅子はこうした頑ななまでの義務感と使命感を持っていたのである。

女子教育の必要性
 帰国後、単に自らの仕事がないというだけでなく、日本社会における女性のあり方そのものが、梅子の落胆に拍車をかけた。日本社会は女性に教養を求めていない。女性たち自身も、「男性からましな扱いを受けることなど期待していず、自分たちは劣っていると感じ、向上しようなどとは全く思っていない」と日本女性の立場に憤りの手紙をランマン夫人宛の手紙に書いている。
 「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない」と梅子は述べている。男性のおもちゃ、召使いにすぎない日本の女性の地位向上のため、教育が不可欠である。梅子の使命感は、徐々に具体的な形となって現れ始めた。7歳でアメリカ留学という希有な体験も、これからの日本の女子教育においてこそ生かされるものと確信するようになる。
 女子教育に向けられた情熱は、一教師としての立場の限界を感ずるにつれ、女性のための学校建設に向かうようになる。男性の考える女子教育ではなく、女性が主導する女性のための女子教育。リンカーンの言葉をもじって言えば、「女性の、女性による、女性のための教育」というものを目指したのである。
 しかし梅子の目指した女性の立場は、当世流行のフェミニズムとは、一線を画するものである。女性の権利を主張し、要求する前に、女性が自らを高めなければならないというのが梅子の信念である。闇雲に権利を主張する女性は、逆に女性の尊厳を損なうことになる。梅子が目指していた女性像は、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力がある、それ故に家庭では夫から尊敬され、社会から必要とされる女性であった。

女子英学塾の創設
 アメリカにいる頃、共に留学した日本の女子留学生仲間と語り合った夢があった。日本に帰ったら自分たちの学校を作ろう。最年少の梅子の情熱が、少女たちの漠然とした夢を実現させた。1900年、梅子35歳の時、念願の女子英学塾が創立され、私立学校令に基づき正式に認可を受けた。現在の津田塾大学の前身である。
 共に留学した仲間が、帰国後次々に結婚し、古い日本社会の慣習の中に埋もれていくのを見て、梅子は一人頑なに自らの使命に忠実に生きようとした。結婚という女性の一般的生き方に抗い、日本女性の地位向上のため、その教育のために献身した。そして、日本の女子教育の先駆者としてその名を残すことになったのである。



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