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和辻哲郎 
(わつじてつろう)

家族愛に裏付けられた人間観
人間の本質は「間柄」  東西両文化の融合目指して

  和辻哲郎は1年半のドイツ留学中、ヨーロッパ各地を巡り回って日本を再発見した。そして西洋近代の個人主義を指摘しながら、東洋的「間柄的存在」としての人間観に辿り着く。これは彼の家族愛に裏打ちされた生活実感から出てきた思想であった。

『風土』の著者

  東京大学文学部教授、倫理学者、そして思想家。これが今回の主人公である和辻哲郎に付された肩書きである。一般的には『風土』の著者としてよく知られている。この著作は一種の日本文化論であるが、「風土」というものを単に人間から独立して客観的に存在する自然環境とは捉えていない。自然環境の中で生きる人間の生活様式や習慣などを含んだものであり、その民族の精神構造の中に刻まれて具現しているものと見る。こうした風土観で書かれた彼の著作『風土』は、当時(昭和初期)にあっては画期的であり、日本文化をたたえる彼の愛国心に溢れたものであった。

人間像の三類型

  和辻は世界の風土を3つの類型に区分する。第一は東南アジア、中国、日本などを含む「モンスーン地帯」。この地域の特徴は、暑熱と湿気の結合である。このような気候は人間にとって耐え難いものであるが、同時に生物を繁茂させる。つまり自然の暴威に耐えながらも、自然の恩恵に浴することも事実である。ここに忍従的、受容的人間像が形成される。
  第二は、アラビア、アフリカ、蒙古などに広がる「砂漠地帯」。ここは乾燥を特徴とし、自然に生気がなく荒々しい。この地方から一神教が発生した。彼らは不毛地帯を生き延びなければならない。また乏しい自然の恵みを求めて、他部族との激しい戦闘が繰り返される。それゆえにこそ、絶対服従による部族内の結束が不可欠であった。唯一神への信仰が彼らの結束を強めたのである。
  第三は、ヨーロッパに見られる「牧場地帯」。夏の乾燥と冬の湿潤(雨期)がヨーロッパ全土に見られる共通点だと言う。こうした気候は雑草を駆逐して全土を牧場化する。ここでは人間は、モンスーン型人間のように自然に忍従したり、あるいは砂漠型人間のように自然を恐怖する必要もない。自然は人間に対して従順であり、合理的に対応する。こうした風土の中で、ヨーロッパの合理的精神、自由の概念、自然科学などが発達したと見るのである。

1年半のドイツ留学

  こうした和辻の風土論は、1年半のドイツ留学期間中に育まれたものである。1927年、当時京都大学の助教授であった和辻は文部省の海外留学生としてドイツ留学を命じられた。研究テーマは道徳思想史で、年齢はすでに38歳になっていた。
  2月7日に神戸を出港した和辻は、上海、香港、シンガポール、コロンボ、そしてアラビア海を通過し、40日間に及ぶ船旅を終えてヨーロッパに到着した。当初の予定では3年間の留学であったが、父の死などの事情で1年半で帰国せざるをえなかった。わずか1年半の滞在であったが、その後の和辻の思想に決定的な影響を与えることになる。
  留学先はドイツのベルリンであったが、ヨーロッパ滞在中、ドイツ各地はもちろんのこと、フランス、イタリア、イギリスの各地を旅行した。ヨーロッパを歩き回って感じ取った体験を帰国後、徐々に「思想」という雑誌に発表した。ここから彼の名著『風土』が生まれたのである。
  『風土』が生まれた背景には、ヨーロッパ各地での実体験があったことは言うまでもないことであるが、今一つベルリンでの思想的体験を忘れてはならない。大哲学者ハイデッガーとの出会いである。和辻はベルリンでハイデッガーの『存在と時間』を読み、強い影響を受ける。しかし同時に人間存在を時間的に規定されたものとして捉えようとするハイデッガーの考えに、全面的にうなずくことはできなかった。時間性、つまり歴史性(あるいは生と死)が人間存在を規定することは事実であるが、それだけではない。空間性も人間を規定するもう一つの重要なファクターであり得るはずである。
  和辻はハイデッガーの思想の中にヨーロッパ的個人主義を見て取るのである。時間性において規定された人間の存在単位はあくまで個人に還元される。しかし、和辻にとっての人間は個人的であると同時に社会的存在でなければならなかった。つまり時間的であると同時に空間的存在である。こうした二重構造を持つものであるというのが、和辻の人間理解であった。和辻の言う「風土」とは、人間を規定する空間性・社会性の延長であったのである。

日本の再発見

  明治、大正および昭和初期の知識人は多く欧米留学を経験した。彼らの中で欧米の近代学問を吸収しつつも、逆に東洋人として、あるいは日本人としてのアイデンティティを再発見した者も少なくない。夏目漱石、新渡戸稲造、内村鑑三などがそれであり、和辻哲郎もその一人であった。
  和辻の人間理解は、空間的、社会的に規定された存在として見ることであった。これは別の言葉で言えば、「間柄的存在」ということになる。人間は本来孤立的個人ではありえない。夫は妻に対して夫らしく、妻が夫に対して妻らしく振る舞おうとするように、間柄にある相手によってすでに規定された存在なのである。まさに関係性に重点を置く東洋的思考と言えるだろう。彼は、近代個人主義を前提とするヨーロッパの契約社会を仮構として批判した。
  1年半のヨーロッパ体験は、和辻の中の東洋的、日本的精神を呼び覚まさせ、思想的な形を与えることになった。まさに日本の再発見であり、自己のアイデンティティの確認でもあったのである。
 和辻の考えは、単に日本礼賛に終わる偏狭なナショナリズムではない。むしろ東洋的、日本的性格の上に西洋文化を摂取することにより、新しい国民的性格の創造、新しい文化創造を提唱している。東西両文化を融合した世界に例のない独自の国民的性格をもって、日本は世界の平和に貢献できるものと考えていたのである。

父親の影響

  和辻が西洋的近代個人主義を無批判に受容することができなかったのは、日本文化への愛着や誇りがあったためであろう。しかし、おそらくそれ以上に彼の育った家庭環境が、彼に個人主義への違和感を引き起こさせ、「間柄的存在」としての人間観を提唱させるに至ったものと思われる。
  まずは父親の存在である。父は兵庫県の田舎の医者であった。「医は仁術」を文字通り実践する父の姿を幼い頃から見て、和辻は育った。医者の役割は、病気に苦しむ患者の苦しみを救うことである。職業である以上報酬は受けるが、しかし報酬が目的ではない。夜中に急病人が出れば、相手が貧乏人だろうが遠方であろうが、寒かろうが嵐だろうが、かまわず出かけた。これが父親の生き様であった。
  「その生活は派手で享楽的なものは何もない、質素をきわめた生活だった」と和辻は述べている。彼は毎日約6キロの道を歩いて学校に通っていたが、父親に自転車をねだる勇気がどうしても出なかった。自己に厳しい父の無言の薫陶が彼に強く影響を与えていたのである。彼は言う。「父の感化は無意識のうちに深くしみ込んでいたのである。私は年を取るに従って父に対する尊敬の念が高まってくるのを覚える」と。和辻は学問研究の道を選んだが、学問を何か富や名誉の手段にすることはなかった。あくまで自己目的とみなした姿勢は父の生き方から学んだものであったのであろう。

妻との「二人主義」

  また、和辻は驚くほどの愛妻家であった。照夫人におびただしい数の手紙を書き送っている。結婚して4年後、27歳の時の夫人あての手紙が残っている。徴兵検査のため、わずか数日家をあけなければならなくなり、郷里に向かう列車の中で書いたものである。「私はもし昔の武士のように、公と私とが背き合う場合に会うとすれば、きっと君主や主人を捨てて、私の照だけを取るだろう。それが私には自己を完成する意味で、また私の生活の唯一の意義だ。照もまた私に同じことを言ってくれるのを私は知っている。私たちは『二人主義者』だ。『二人が一人になる主義者』だ」。
  照夫人は和辻にとって張り合いであり、生き甲斐であった。仕事で旅に出ざるを得なくなると「何だか生活の重心がふらついた感じがする」と言うほど相思相愛の間柄であった。この強い夫婦の絆は生涯変わることはなかったのである。
  和辻の「間柄的存在」という人間理解は、東洋人として、あるいは日本人としてのメンタリティを思想化したものであろうが、それは同時に彼の家庭環境に強く裏打ちされたものでもあった。親がいて子がいる。夫がいて妻がいる。こうした家族の中にこそ個人の真実の姿が浮かび上がるはずである。家族を離れて孤立した個人は仮構であるというのは、彼の生活実感であったのである。



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