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向学新聞2004年10月号>


北里柴三郎 
(きたさとしばさぶろう)

近代医療の先駆者
日本国民の病苦を救いたい  国家を優先する愛国者

  明治の医学界の泰斗北里柴三郎は、その才能に恵まれていたことはもとより、努力の人でもあった。彼の才能、努力が開花し実を結ぶのは、人との出会いが不可欠だ。留学先ドイツでの恩師コッホとの出会い、帰国後の福沢諭吉との出会い。こうした人々との出会いが、彼の運命にとって決定的な意味を持つ。

近代医療をリード

  医者として、細菌学者として北里柴三郎が残した業績は、はかり知れない。ドイツ留学から帰国後、細菌研究としては日本初の伝染病研究所を設立した。彼はここで、ペスト菌や赤痢菌などの発見をし、明治・大正時代の医学界を常にリードした。この研究所は、後にコッホやパスツールの研究所と並ぶ世界三大研究所と言われるまでになるのである。
  彼の業績は、研究分野だけにとどまらない。日本初の結核療養所を開設し、病院経営も手懸けた。さらには、伝染病予防法、ライ予防法、医師法などの法律の制定。結核撲滅キャンペーンのための結核予防協会の創設。慶応大学の医学部の創設など、活躍の場は、医学界全般にわたっていた。78歳の生涯を閉じるまで、日本医師会の会長職を引き受け、日本の近代医療、衛生行政の発展に絶大な貢献をなしたのである。

医学の道へ

  北里柴三郎は、1853年1月に肥後国(現在の熊本県)の由緒ある武士の家に生まれた。長男であった柴三郎は幼児のころから、武士になるため武芸を研くことに明け暮れ、学問に興味を示さなかった。
  18歳で熊本医学所に入学することになったが、それは彼の意思ではなかった。それでも医学所に入学したのは、親の強いすすめがあったことと蘭学(オランダ学)への強い関心があったからにすぎない。
  そんな彼が医学に目覚めたのは、ちょっとしたきっかけであった。ある日の実習で身体の組織を顕微鏡でのぞいていた時のこと、言うに言われぬ感動が彼を襲った。この時はじめて、医学も学ぶに価するものかもしれないと感じた。将来の道が北里の目の前におぼろげながらも照らされた瞬間であった。

ドイツ留学

  入省3年後(1886年)、内務省衛生局はドイツのベルリン大学に北里を派遣することを決定した。彼はそこで生涯の師と仰いだ人物と出会うことになる。ベルリン大学衛生学教室主任教授ロベルト・コッホである。細菌学の確立者であり、世界的な権威であった。
  北里の勉学態度は勤勉なドイツ人を驚嘆させた。彼の直接の担当教官は、「我々ドイツ人にも彼ほどの勉強家は見当たらない」と言ってコッホに報告したという。ベルリンに到着して1年余りの間、下宿と教室との間の道以外は知らなかったとも言われている。
  当初彼の留学期間は3年間の予定だったが、内務省に2年間の延期願いを提出した。予定通り3年間で帰国すれば、コッホから課せられた研究課題は中途半端なまま、何の成果も上げられない。延期願いの申請書に次のように書いた。「日本には何一つとして欧米文明諸国と肩を並べられるものがない。世界的に評価されている学者もいない。だから私は世界的な学者になるつもりで勉強している」。彼の研究に対する並々ならぬ決意の程がうかがえる。その後、さらに1年延期が認められ、3年の延期となり、計6年間ドイツで研究生活を送ることができた。実際、この3年間の延期の期間で、彼の世界的な水準の研究論文が次々と発表されることになった。

破傷風菌の純粋培養に成功

  北里柴三郎の名を一躍有名にしたのは、破傷風菌の純粋培養の成功による。当時、死亡率の高い伝染病であったこの破傷風という病気に関しては、その病原菌は特定できていたものの、純粋培養に成功した者は誰もいなかった。伝染病は特定の細菌が原因で起こるとするコッホ理論を裏付けるには、この純粋培養が不可欠であったのである。ところが、細菌学の権威者達が数年にわたって純粋培養を試みたが、すべて失敗に終わった。この難題を東洋の医学後進国の一留学生が解決したのである。
  恩師のコッホは、愛弟子の成功を我が事のように喜んだ。その後、破傷風菌の抗毒素(免疫体)の発見。さらには、その免疫血清療法の開発など、彼の活躍はめざましいものがある。
  北里の帰国の日が迫ったある日のこと。イギリスのケンブリッジ大学から細菌学研究所の所長就任依頼が舞い込んできた。名誉なことであり、条件も破格のものであった。しかし、彼は少しの迷いもなく、きっぱりと断った。「ドイツで学んだ知識や技術をもって帰国し、日本国民の病苦を救いたい。そして日本から受けた恩に応えたい」。彼の気持ちは決まっていた。使命感と言ってもいいだろう。北里39歳の5月、6年間の留学を終え帰国した。

私立伝染病研究所

  帰国した北里が最初に取り組んだ事業が伝染病研究所の設立である。当初、この研究所は内務省か文部省に設置する計画であった。しかし、国立である以上、当然帝国議会の承認が必要となる。議会の議論や面倒な手続きを行えば、早くても2年以上は研究が始められない。北里と彼を応援する人々は、この2年間を無為に過ごしたくなかった。事態打開の方策を模索していたとき、一人の人物が北里の前に現れた。福沢諭吉である。
  福沢の意志決定は速かった。「優れた学者を擁しながら、これを無為に置くのは国家の恥ではないか。つまらん俗論にこだわってはいけない」と言って、自ら行動を起こした。芝公園内の土地を提供し、資金集めに協力した。その結果、北里の帰国した年の10月には、工事が開始され、1ヶ月後には新築の研究所が開設される運びとなる。異例の速さでことが進められた。当然、北里は初代所長に就任した。
  しかし、一難去ってまた一難。研究所の建物はあまりにも手狭で、病室の不足や研究室の不備など問題が山積していた。開設して1ヶ月もしない内に、移転・新築の話が持ち上がり、即刻決定した。しかし、移転先の周辺住民からの猛烈な反対運動がわき起こったのである。「伝染病」という言葉に敏感に反応した結果であった。反対運動は拡大の一途をたどり、工事着工の目処がまったく立たない状況となった。
  この危機を救ったのは、またしても福沢諭吉であった。彼は自らが経営する新聞に、3日間にわたり、反対運動非難の論説を書いた。それだけではなく、自分の息子の家を伝染病研究所の隣りに新築し、その安全性をアピールしたのである。こうした福沢の言論に動かされてか、政府も反対運動を抑える方向に向かい、東京都も研究所の建築を出願書通りに許可した。工事はただちに着工され、1894年の2月には新しい研究所が完成した。

恩に報いる

  才能や努力ばかりで人は偉人となるのではない。才能や努力が花開き、実を結ぶには、素晴らしい人々との出会いが不可欠である。北里もその例外ではない。コッホ、福沢諭吉をはじめとする人々との出会いがなければ、彼の才能が開花したかどうか。
  そして、北里の偉大さは、国の恩、人の恩を決して忘れなかったこと、それとそれに報いるため、あらゆる努力を傾けたことである。留学後、ケンブリッジを蹴って、帰国を選択したのも、国の恩に報いたかったからである。恩師コッホに対しても然りである。師に対する姿勢は、終生変わらなかった。1908年コッホ夫妻が来日の折りには、あらゆる組織に働きかけて、国賓級の歓迎会を開催した。コッホの死後には、研究所内に「コッホ神社」なるものまで作って、恩師生誕の日に霊を慰める祭典を毎年挙行した。またドイツで第一次世界大戦後、ハイパーインフレーションが起こり、コッホ未亡人の窮状を人づてに聞くと、彼は未亡人宛に多額のお金を送金し続けた。
  福沢諭吉の恩も忘れたことがなかった。福沢の死に際して、彼は弔辞で「報恩を期す」と誓った。十数年後、その誓いが果たされることになる。福沢が作った慶応義塾の大学部に、新たに医学部を設置するという話が持ち上がった。彼は福沢の恩に報いるために、医学部設置に尽力し、初代の学部長、そして病院長に就任した。その医学教育に従事した10年余りの期間、給料や報酬は一切受け取らなかったという。
  人の恩、国の恩に報いたいとする北里は、同時に、自分のことより国家のことを優先する愛国者でもあった。コレラの血清療法を開発したときのことである。この療法は画期的な成果を上げた。特効薬を独占すれば、研究所に計り知れない利益をもたらすことは誰の目にも明らかだった。しかし、北里はあえて独占を避けた。国の「官業にしたい」という申し出を快く受けて、すべて国家に献上してしまった。官業にしたほうが、国家国民のより大きな利益につながると判断したのである。大事なことは、国家、国民のためになるかどうかを判断の基準とした。
  国の恩に報いたい。人の恩に報いたい。この精神で彼は明治・大正の医学界を牽引し、偉大な足跡を残して、1931年6月、78年間の生涯を終えた。



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