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小泉信三


小泉信三 
(こいずみしんぞう) 

大火傷の苦難を越えて 
慶應義塾塾長を務めた経済学者  皇太子のご成婚に尽力  

小泉信三は、いち早くマルクス経済学の矛盾に気付き、共産主義批判の論陣を張った。そして日本を共産化の危機から救おうと警鐘を鳴らし続けた。イギリス留学時代に社会主義関連の文献を集め、それを徹底して学んだことが役に立ったのである。

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小泉信三

闘う経済学者

  小泉信三は、慶應義塾大学の塾長(学長)を務めた経済学者である。そして闘う学者であった。マルクス経済学の矛盾をいち早く指摘し、『共産主義批判の常識』を出版し、世に問うた。戦後、左傾化を憂える知識人に一つの拠り所を提供したのである。
  また宮内庁長官から請われて、皇太子殿下(現天皇)の教育に責任を持つ東宮御教育常時参与という重責を担った。皇太子と美智子妃の事実上の仲人として、二人のご結婚に最も重要な役割を果たしたことは、あまりにも有名である。戦後の皇室にとって、なくてならない一人であったことは間違いない。しかし、彼の人生行路は決して順風満帆だったわけではない。「険しい時代に生き抜く知恵を持った人間を作る」という彼の教育信念は、彼自身の苦難の体験に裏付けられたものであった。

福沢邸で過ごした少年時代

  小泉信三の慶應とのつながりは、すでに父の代から始まっていた。父の信吉は、紀州藩(現和歌山県)から派遣されて江戸に出て、福沢諭吉が開いた慶應義塾の門下生になった。その後、福沢に認められて塾長に就任している。信三が誕生したのは1888年5月4日で、その前年に父は塾長になっていたから、まさに慶應塾長の子として、信三は誕生したのである。
  父が亡くなったのは、信三が小学校に入ったばかりのとき。横浜正金銀行支配人として繁忙を極める生活で健康を害し、盲腸炎が悪化して命を落としてしまった。信三は6歳にして家督を相続することになったのである。4人の子持ちの未亡人になった母千賀を助けたのが、福沢諭吉であった。福沢邸の一角にある家屋に小泉一家を住まわせ、何かと面倒を見た。信三は、まさに福沢諭吉の懐の中で少年時代を過ごしたのである。信三はたびたび、「福沢先生の偉いところは愛である」と書いた。これは、小泉家みんなの気持ちであった。

イギリス留学の成果

  少年時代の信三は、腕白で、いたずら好きで、ガキ大将。親をずいぶん困らせたらしい。学問のおもしろさに目覚めたのは、大学予科の頃。たまたま首席になり、秀才扱いされたことで、その気になって勉強に励んだという。慶應義塾大学(政治科)の卒業は1910年、卒業生178名の総代に選ばれての卒業で、大学の教員に採用が決まった。
  その2年後、海外留学を命じられ、イギリスのロンドンに向かった。学んだ先は、ロンドン大学経済科。当時のイギリスは、資本主義の発展と共に、労働組合運動が盛んになり、社会主義思想などが海外から流入。宣伝活動も活発だった。こうした流れを学問的にしっかり考察し、系統立てて勉強しようと考えた。約4年にわたる留学生活の収穫の一つは、こうした社会主義思想の文献収集であった。この時作ったノートが、後に大学での講義に生かされ、さらにはマルクス主義者との論争の基礎資料となるのである。
  当初、小泉はマルクス主義に一定の共感を持って学んでいた。社会を運動、成長、進化するものと見る弁証法的見方は、マルクスから学んだと自ら述べている。しかし、約10年の考察の後、マルクス主義に対する自らの立場が明確になった。資本主義の矛盾が革命という、暴力を伴う手段で一気に解決するという考えは幻想である。社会の進歩とは、一つの段階を越えれば、また次の段階があるというように際限なく続き、この繰り返しに他ならない。これを小泉は「秩序ある進歩」と呼んだ。戦後、マルクス主義者と論争することになる、自らの思想の骨組みができあがったと言えよう。

長男の戦死と大火傷

  小泉信三が慶応の塾長に選ばれたのは1933年11月、日本が満州帝国を打ち立てた翌年のことで、軍部の独走により開戦へと押し流されつつあった時期である。ひたすら平和を願っていた小泉にとって、沈鬱な日々が続いた。しかし戦争回避の努力も空しく、日米戦争が勃発するや、覚悟が決まった。「戦うからには、勝たねばならない」。もやもやした気持ちが一掃された。国を愛する気持ちは人一倍強かったのである。
  戦争が始まって約1年後、長男の信吉戦死の電報が届いた。南太平洋の最前線で、乗船した軍艦で任務中、敵弾にあたって戦死したという。小泉は、息子の死を「親らしいことをしてやらなかった」と悔やみ、嘆いたが、家族の前で涙を流さなかったし、愚痴も言わなかった。電報の届いた日、夕食になって、彼は「さあ、これから4人(夫婦と娘2人)で楽しく暮らしましょう」と笑顔で言った。一家の悲しみの盾になって、家族をかばおうとしたのである。長女の加代は、そんな父を頼もしく感じ、その心遣いが「嬉しかった」と語っている。
  夜半、弔問客が帰ってから、とみは息子の写真を見て泣いた。闇の中から、「シンキチ、シンキチ」と呼ぶとみの声が途切れることがなかったという。息子の死からしばらく後、ときどき話の途中で、突然唸るような、爆発するような声で泣く小泉の姿を家族は目撃している。押し殺してきた悲しみのマグマが、何かの拍子に吹き出してしまうのであろう。
  不幸は続いた。1945年5月25日、東京大空襲で三田にあった小泉邸にも爆弾が落下し、火の手が上がった。火の回りはあまりにも早く、一瞬にして家全体が火の海と化してしまった。逃げ遅れた小泉は、全身火だるまになって階段を呆然とした様子で下りてきたが、2階の踊り場で意識を失った。階下からあらん限りの声で叫ぶ家族の声で目を覚まし、ゆっくりと起きあがり、焼けた階段を手探りで家族のいるもとへ下りてきた。
  火傷は手のつけようがないほどで、生命の危険を伴うひどいものだった。入院生活は約半年に及び、終戦の報道はベッドの上で聞いた。退院後、体力は回復したのものの、脚の力は容易に回復せず、顔には深い火傷の痕を残していた。治療中、小泉は「痛い」とか、「苦しい」という言葉を一度も発したことがなかった。その後の生涯でも、火傷のこと、一身上のことで一度も不平や愚痴を言ったことがないという。娘の加代は、「子供の私がいうのはおかしいかもしれないが、本当に偉いことだと思う」と言っている。

東宮御教育常時参与に就任

  小泉信三に東宮御教育常時参与の話が舞い込んできたのは、戦争が終わってまだ間もない頃のことである。しかし、まだリハビリの途上であり、健康に不安を抱えていたため、断り続けていた。皇太子の教育という大役を果たせるはずがない。しかし、宮内庁長官になった田島道治らが熱心に説得し、ついに承諾した。
  正式に就任したのは、慶應の塾長を任期満了で辞任(1947年1月)した2年後の1949年のことで、61歳のときである。まだ歩行も困難で、室内ですら杖を必要とした時期である。週に2、3回東宮御所に出向くということは、容易なことではなかった。しかし、引き受けた以上、全責任を持って皇太子教育に取り組んだ。
  小泉の教育方針は、「体力と知力のバランスの取れた教育」。これは「まず獣身を成し、しかる後に人心を養え」と語った福沢諭吉の教えでもあった。体育をおろそかにするなということだ。皇太子がテニスに熱心であったのは、長年テニス部の部長であった小泉の影響である。このテニスで美智子妃と出会うことになる。また、「ジョージ5世伝」や福沢諭吉の「帝室論」などを皇太子に講義して、立憲君主としての心構えを説いた。
  小泉が何よりも尽力したのが、皇太子の御成婚である。彼が最初に美智子妃殿下を見かけたのは軽井沢のテニスクラブ、皇太子と美智子妃との試合の場であった。品が良く、冷静沈着な美智子妃のプレーは小泉の心に深く刻まれた。その後、美智子妃の実家である正田家に足を運び、成婚の話を詰めていった。1959年4月10日、ついに御成婚の運びとなった。こうした一連の努力と功績に対し、同年11月に小泉は文化勲章を授与された。

愛国心と家族愛

  小泉は文筆をもって立つ決心をしたのは、空襲で大やけどを負って約1年が過ぎた頃だという。ようやく手の指の自由がきくようになり、原稿を書く自信がつき始めたからだ。その頃から共産主義批判の一連の論文を精力的に書き始めるのである。1949年に大衆向きに出版した『共産主義批判の常識』は、ベストセラーとなった。その中で、「社会主義は体系化された嫉妬の情である」と述べたこの言葉は、あまりにも有名である。
  こうした一連の著作活動を行ったのも、皇太子の教育係を引き受けたのも、日本という国を愛する小泉信三の生の証であった。戦争で焦土と化した日本の再建に彼なりのやり方で貢献したかったのであろう。
  小泉の生涯は、人に恵まれた生涯であった。それは彼が人を大切にしたからに他ならない。幼くして父を失い、戦時中に長男を失い、多くの愛別離苦を繰り返し、さらに身体に障害を持ったがゆえに人一倍、他者の痛みに敏感であった。だからこそ、人を大切にすることを常に心がけた。
  大火傷を負って、外出もままならない養生の身を案じた知人友人たちが、世情に遅らせまいとして、小泉の自宅で月1回の勉強会を開催してくれた。白水会という。小泉の「泉」を二字に分けた「白水」である。晩年、小泉は「白水会は、世の中への唯一の窓であった」と述べている。彼らは信三への恩返しをしたかったのである。
  また妻を愛し、二人の娘を愛する小泉の姿は傍目から見ても微笑ましいものであった。それも数多くの難局を家族で切り抜けながら、たどり着いた平和の境地であった。小泉の死後、妻とみが「本当に子供たちにとって良いお父様だった」と次女タエに語った。少々羨ましそうな口調であったという。タエは答えた。「では、生まれ変わるとしたら子供におなりなさい。私が奥さんになりますから」と。とみはすぐに「いいえ、やっぱり私が奥さん」と言った。
  そんな妻に見守られながら、小泉信三は1966年5月11日午前7時半、心筋梗塞で息を引き取った。享年78歳。「君に心配させて済まないね」という小泉の最期の言葉に、妻は「いいえ」と言った。



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