諸橋轍次 
(もろはしてつじ) 

『大漢和辞典』を編纂 
学徳一体の人格  誠で一貫すれば事はなる  

全13巻に及ぶ『大漢和辞典』の構想は、中国留学時代の漢学研究の苦労がきっかけとなった。こんな辞典があれば、学者の漢学研究にどれほど貢献することか。多くの協力者の支えで、その思いが32年の歳月を経て実現した。それは計り知れない犠牲を伴うものであった。

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諸橋轍次

最も権威ある漢和辞典

  諸橋轍次は漢学者、『大漢和辞典』(大修館書店)の編集者としてその名を後世に残した。この辞典は全13巻に及び、漢字の母国中国でも例を見ない大辞典であった。完成して50年近くの歳月が経っているにもかかわらず、今なお学界では最も権威ある漢和辞典として評価されている。漢字・漢文関係で、『大漢和辞典』を引かずに「わからないと言うな」と言われているという。
  この事業に費やした期間は32年間。その間、戦災による原稿の焼失など数多くの苦難にあいながらも、決して仕事を投げ出さなかった。晩年、彼は語った。「どんな場合でも、誠というもので一貫すれば、必ず事は成るということは間違いないと思います」。

宿願の中国留学

  諸橋轍次は1883年6月4日、新潟県南蒲原郡四ツ沢村、現在の三条市庭月に父安平と母シズの次男として誕生した。父は小学校の校長を務めており、村人からは「訓導様」と呼ばれて、大変な尊敬を集めていた。
  轍次が漢学を学び始めるのは13歳の頃。隣町で奥畑米峰が開いている漢学の私塾(静修義塾)に、父の勧めで入ってからである。塾での勉強は、漢書の素読が主であった。轍次はめきめきと頭角を現し、2年後には師範代として他の塾生を教える立場に立つほどに成長した。
  21歳の時、東京高等師範学校の国語漢文科に入学。卒業後、一時教員となったが、漢学研究を深めるため、同校の研究科に再び入学。卒業後、高等師範学校の附属中学に教諭の職を得たものの、漢学の研究を深めれば深めるほど、中国留学への思いが抑えがたきものになっていた。しかし当時、内閣から許可される中国への留学生は、帝国大学教授など年に二、三名程度。中学の教諭の身には、到底叶えられない狭き門であった。
  諸橋は、嘉納治五郎校長(東京高等師範学校)に頼み込んだ。財閥などにかけ合ってくれた校長の尽力により、約2ヶ月ほどの中国旅行が可能となる。1918年5月、35歳の諸橋は、生まれて初めて中国の大地を踏みしめた。甲骨文字の解読に成功した王国維、清の皇帝の教育を勤めた陳宝琛ら当代一流の学者と親交を深めた収穫の多い旅だった。諸橋は本格的な中国留学の決意を固めて帰国したのである。
  その後、文部省の正式な辞令を得て、中国留学の途に上ったのは、中国旅行から帰った翌年(1919年)のこと。北京での留学生活は、古典との格闘の日々であった。1日の3分の1ほどは、辞書をあさる時間に消えていく。これは本当につまらない。もし、漢書を読み解くための適当な解釈を施した辞典があれば、こんな苦労は避けられる。しかし、そんな辞典は中国にも、日本にもない。これができれば、学者の学問研究にどれほど貢献できることか。こんな思いが、後に『大漢和辞典』を作るきっかけとなった。かの大辞典は、留学時代の苦労から生まれたといっても過言ではない。

鈴木一平との出会い

  大修館書店の社長鈴木一平が諸橋轍次を訪ねたのは、中国留学から帰国して4年後の1925年のこと。鈴木はそれまで受験参考書などを多く手がけてきたが、その頃立派な漢和辞典を出したいと考えていた。この辞典の編纂を諸橋にお願いしようというのである。
  諸橋の返事は「とてもそういう暇はありません」というものだった。その上、漢字は徐々に廃れていくので、漢和辞書も必要なくなるというようなことまで言い切るのである。
  しかし、鈴木はそれで引き下がるような人間ではなかった。諸橋の学識と人柄にすっかり魅せられ、この方にお願いしようという気持ちをさらに固めるのである。諸橋は、人を大切にする学徳一体の人物だった。月に1度程のペースで諸橋宅に通い始める鈴木をいつも笑顔で迎え、中国談義に花を咲かせた。
  1年ほども通った頃、鈴木は諸橋に尋ねた。「先生は本当に新しい漢和辞典はいらないと思っておられるのでしょうか」。諸橋から中国の話を聞くにつけ、漢和辞典はいらないという主張がどうしても理解できなかったのだ。諸橋は「いいものを見せてあげましょう」と言って、奥から柳行李を取り出してきた。中には数万枚のカードがぎっしり詰まっている。調べた漢字や熟語の意味や出典などが書き込まれていた。一度調べたものを二度も三度も調べ直さなくても済むように中国留学時代からずっと続けてきたものだという。
  目を見張る鈴木に向かって尋ねた。「いったい何巻ぐらいの漢和辞典を作るつもりですか」。鈴木は「一巻か二巻くらいです」と答えた。「そうでしょう。私も、そうだろうと想像したから、そのような辞典はもういらないと答えたのです」。諸橋が言うには、漢和辞典にいいものが少ないのは、巻数が足らなくて、十分な言葉を載せられないからだ。彼が作りたい辞書は、一巻千ページほどで、最低五、六巻になるようなものだった。こうした壮大なプランをいずれの時にか実行したいと思って、諸橋はカードを書き続けていたのである。あまりに大きな話なので、鈴木はすぐに返事はできなかった。

生涯をかける仕事

  鈴木一平は思い悩んだ末、ついに決断した。企業利益のことを考えたら、とても割に合う仕事ではなかった。しかし人の一生は短い。ここで引き下がれば、将来きっと悔いとなる。こんな思いが沸々と湧いてきた。妻に相談したら、「素晴らしいじゃない。そんな立派な仕事ができるなんて」との返事。「失敗したら、元も子もなくなるぞ」。「いいじゃない。震災(関東大震災)のときなくなってしまったと思えば」。全く動ずる気配のない妻の言葉に勇気を得て、鈴木の気持ちが固まった。
  1928年6月、ついに出版契約が結ばれた。辞典の名は『大漢和辞典』、本来なら完成してから支払うべき編集制作費などを月々支払うことなどが決められた。諸橋は、すぐさま教え子の中から若き研究者4名を助手に雇い入れた。諸橋45歳、鈴木41歳、一大プロジェクトがこうして出発したのである。
  辞書作りは、実に地道な作業の連続である。来る日も来る日も、資料を丹念に調べ上げ、語彙を確定し、例文を拾い上げなければならない。5年かかって、書き上げた原稿用紙は約6万枚。この段階で驚くべきことが諸橋から鈴木に告げられた。「どう少なく見積もっても、最低12巻か13巻は必要になってしまう」。鈴木は言葉を失った。すでに5年の歳月がかかっている。この先、何年かかるか、いくらかかるか、全く見通しが立たない。いくら考えても結論は同じである。今投げ出せば、今までの苦労は水泡に帰する。この仕事を生涯の仕事にするしかない。

空襲で全てを失う

  12巻、13巻にすると決めてから13年半の歳月が流れた。ついに総ページ数一万三千七百五十七ページ分の組版(活字を並べた印刷用の版)が完成。ゲラ刷り(校正刷り)の紙の山を積み上げると高さが2メートルにもなった。1941年10月のことである。
  しかしその2ヶ月後、日本は太平洋戦争に突入。辞書作りに暗雲が立ちこめた。まずは、紙の割り当てが制限された。何とか用紙をかき集めて、ようやく第一巻を刊行したものの、今後の見通しが立たない。1945年2月25日、さらに途方もない災難が降りかかった。東京空襲により、大修館書店が全焼、1万3千ページに及ぶ組版全てと二十数万本の活字母型、その他全ての資料が焼失してしまったのである。
  諸橋はその時の気持ちを「半生の志業は、あえなくここに烏有に帰したのである」と述べ、「祖国が敗戦したのだから、自分の仕事など、どうなっても仕方がないという、あきらめの気持ちであった」と述懐している。
  悲劇はこれで終わらなかった。十数年間、諸橋を支え、苦楽を共にした4人の仲間が、戦中、戦後にかけて次々に病に倒れ帰らぬ人になってしまった。その上、諸橋の両目は、白内障により視力は極端に低下、特に右目がひどく、白黒がわずかに判別できる程度となってしまう。さすがの諸橋も気力を失いかけた。それを励ましたのが、鈴木一平であり、協力者たちである。「第一巻を買ってくれた人がたくさんいます。この仕事を中断したら、その人たちに対する責任はどうなるんですか?私たちが先生を支えますから」。諸橋を励ますスタッフの言葉に、目頭が熱くなり、弱気になりかけた気持ちが涙によって洗い流された。気力が蘇って来たのである。幸いなことにゲラ刷りが残っていたので、それをベースに、さらに良い辞書編纂に向けた戦いが再開したのである。

32年目に完成

  完成までの道のりは、決して平坦ではなかった。46年には、諸橋の右目はついに視力を失った。続いて活字職人小林康麿の死。何よりも痛手であったのは、51年の妻キン子の死であった。妻の死後、若い頃の日記が発見され、「夫に安心して学問をさせてやりたい」とあり、妻の長き献身に諸橋は泣いた。しかし、諸橋には一切の迷いはなかった。襲い来る困難を次々に克服して、ついに1960年5月13日『大漢和辞典』13巻全てが完成したのである。すでに32年の歳月が経ち、諸橋は77歳になっていた。
  その壮大な事業を成功へと導いたものは、諸橋の学識と気力に負うところは言うまでもない。しかし、諸橋がいくら偉大でも、協力者が現れなければ何ごともなし得ない。その点、諸橋は実に恵まれていた。鈴木一平は私財を投げ打ち、持てる全ての力をこの事業に注ぎ込んだ。医学部進学中の長男を退学させ、会社経営に当たらせたし、東大を目指していた次男には、それを断念させて写植技術を習得させ、さらに三男には会社の経理を担当させた。親子二代の運命を賭けてこの事業をやり抜く覚悟を固めていた。鈴木は言っている。「思えば、私の生涯はすべてこの大事業に終始した」。
  他にも数多くの協力者が、諸橋の仕事を助けたのである。彼の志に共感したばかりではない。諸橋の学徳一体の姿が、人を惹きつけてやまなかったからだと思われる。1982年12月8日、諸橋轍次は99歳で永眠。大往生であった。



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