IFSAは外国人留学生のための様々な情報提供、就職・転職支援(日本人海外経験者含む)までを行う非営利団体です。

大山巌


大山巌 
(おおやまいわお) 

西郷の再来と言われた男 
日露戦争で見せた存在感  信頼し任せ、責任は取る 

第二次世界大戦直後、多くの軍人の銅像が撤去される中、大山巌の銅像だけは撤去を免れた。日本を統治したマッカーサー元帥が、自室に大山巌の肖像画を飾っていたほどの大山ファンだったからだ。マッカーサーを心酔させた英雄大山巌を作り上げたものは、何であったのか。

_

大山巌

西郷隆盛とのつながり

  明治時代、日本は日清戦争、日露戦争に勝利し、世界の先進国家の仲間入りを果たした。その立役者の一人が大山巌である。軍人として元帥にまで登りつめ、近代国家日本の建設の柱として活躍したその功績で公爵の地位に輝いている。歴史家は大山巌を称して言う。軍人でありながら、軍人以上のものであると。その一生は明治維新の英雄、西郷隆盛の再来とまで言われた。もし西郷が西南戦争で死なずに生きていれば、こんな生涯を送っていたのではないかと思わせる人物だった。
  1842年、大山巌は薩摩藩の鹿児島城下の下加治屋町で、彦八と競子の間の次男として生まれた。父の彦八は西郷隆盛の父の弟で大山家に養子に入った人物である。つまり隆盛とは従兄弟の関係。二人は濃い血縁関係で結ばれていた。
  大山は6歳の頃から、薩摩の郷中と呼ばれた地区別の青少年の軍事・教育組織に入り、郷中頭の西郷隆盛から読み書きなどを教わった。大山より15歳も年長の西郷は、兄であり、父でもあるような存在だった。この郷中教育の中で、大山は薩摩武士の神髄を学び、それを身に付けた。卑怯を嫌い、死を覚悟してことに臨む潔さである。そして、リーダーのあるべき姿は、身近な西郷から吸収した。後の英雄大山巌は、薩摩なしにも、西郷なしにも、存在しえなかったと言える。

兵器研究のため留学

  大山巌は、その生涯で3回も海外渡航を経験している。最初の渡欧は1870年8月、明治新政府ができた2年後のこと。アメリカ、ヨーロッパを訪問し、約半年にわたる旅であった。彼が主に見て回った先は、海軍の造船所、武器工場、大砲製造所などである。なぜ、こんなものができるのか。その規模といい、精巧さといい、日本の比ではなかった。こういう国と戦争したら、日本はひとたまりもない。近代化を急がなければならない。「国の独立は兵器の独立だ」という気持ちを抱いて、1871年3月に帰国した。
  本格的な兵器の研究を急がなければならない。焦燥感を持って帰国した大山は、再渡航を願い出た。帰国して8ヶ月後の11月、大山は再度欧州に向けて旅立った。29歳のかなり遅い留学である。大山がヨーロッパから学ぼうとしたのは、単に兵器のことだけではない。こうした兵器を生み出す素地、つまり近代文明そのものに関心が向けられていた。オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会(1873年8月)には、何と1ヶ月の滞在中26回も会場を訪れている。よほど強い刺激を受けたのであろう。

西郷の下野で帰国

  留学中の大山に薩摩の先輩である吉井友実から、驚くべき手紙が届いた。西郷隆盛が下野し、鹿児島に帰ってしまい、これに相当数の薩摩藩士が同調して帰郷したと言う。新政府の最大危機である。手紙は、この対立の解決のため、すぐ帰国してほしいと結んでいた。
  手紙を受け取ってから2ヶ月後、吉井友実自身が欧州に乗り込んできた。大山を連れ戻すためである。事態は、想像以上に深刻だった。1874年10月、大山は西郷を政権に復帰させるという重責を担って帰国した。
  3年ぶりに鹿児島に戻った大山は、その足で西郷のもとを訪れた。新政府に戻って欲しいという大山の必死の説得も空しく、岩のような西郷の心を変えることはできなかった。ならば、大山の選択は一つである。西郷のもとで腐敗した新政府の立て直しを図るまでのこと。西郷と運命を共にしたいと申し出た。西郷の周辺を不平武士が取り囲んでいた。彼らが暴発すれば、西郷は命の危険にさらされる。西郷を守るためにも、大山は西郷と行動を共にすべきだと考えた。
  大山の申し出に対し、西郷は首を横に振った。「おはん(お前)は、これからの日本に必要な人材じゃ。東京におって、天皇陛下のお役に立たねばならん。おい(俺)の役には、立たんでもいい」。「おいの命、兄さぁにお預けします」。西郷は急に立ち上り、「ならん、断じてならん。帰れっ、東京に帰れっ」と怒鳴った。
  西郷は滅多なことで人を叱りつけることのない人間である。大山は、西郷の怒声の中にその悲壮なる決意を感じ取った。不平武士たちの側に身を置きながら、彼らと運命を共にする。そして彼らと共に死ぬ。新しく誕生した政府を守るにはこれしかない。西郷の「国家へのご奉公」であった。その「ご奉公」に大山を巻き添えにしたくなかったのだ。大山には、そんな西郷の気持ちが痛いほどわかる。大山は西郷のもとを去り、実家にも寄らずに東京へと急いだ。これが西郷との今生の別れとなるかもしれないと思うと、涙が溢れ出て止まらなかった。

西郷の死

  大山が恐れていた最悪の事態が起きてしまった。西郷を擁立して、ついに鹿児島の武士たちが暴発した。西南戦争(1877年)である。大山にも、鎮圧のため鹿児島に向かう命令が下された。大山は軍人である。戦場にあっては、味方(政府軍)の勝利に最善を尽くさざるを得ない。最も辛い戦いとなった。半年以上に渡る激戦の末、西郷が立て籠もった城山への砲撃の時が来た。その任は、非情にも大山巌に下った。
  早朝4時に始まった攻撃は、明け方には大勢が決まった。西郷自刃。遺体が浄光寺に運ばれた。大山は、決してそれを見ようとはしなかった。西郷夫人に弔慰金(遺族に贈るお金)を渡そうとしたが突き返され、巌の姉は泣きながら巌を責め立てた。胸が張り裂けるような辛い立場だった。しかし、彼は一切弁解をしなかった。理解してもらえると思っていなかったからだ。「兄さぁだけが、わかってくれればそれでいい」。西郷の新政府への「ご奉公」を見届けるのだ。そんな思いが、彼の心をぎりぎりのところで支えていた。
  西南戦争の翌年、明治天皇が北陸・東海地方を巡幸されたとき、大山巌はその同行を命じられた。天皇が大山に語り始めた。「私は、西郷に育てられた。今、西郷は『賊』の汚名を着せられ、さぞ悔しかろうと思う。私も悔しい。西郷亡き後、私はその方を西郷の身代わりと思うぞ」。
  大山は感激で身が震えた。「もったいないお言葉でございます。全身全霊を陛下に捧げる所存でございます」と答えるのがやっとだった。西郷を失って以来、大山は元気を失っていた。何をするにも、気合いが入らないのだ。この時の天皇のお言葉で、西郷亡き後の自分の生き方が見えてきた。「自分は兄さぁの代わりとなろう」。西郷の人生を生きればいいのだ。大山の目から、熱い涙がとめどなく頬をつたった。

大山流の統率術

  日本が先進国の仲間入りを果たすことになった日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)の勝利は、大山巌の存在抜きに語ることはできない。第二軍の司令官として参戦した日清戦争の出陣に際し、「敵国民といえども仁愛を持って接すべし」と訓示した。訓示を垂れる大山の姿に、「勇者は義に篤くなければならん」と語っていた西郷隆盛を見た者は、決して少なくなかった。敵兵からも称賛された日本軍の規律正しさは、後々まで語り種になっている。
  満州軍総司令官として戦った日露戦争でも、大山巌の存在感は圧倒的だった。大山巌の許可を得た作戦ならば、きっと勝てる。そう思わせる力、人徳が大山にはあった。「この戦争は、大山巌で決まる」と語ったのは、参謀次長の児玉源太郎である。陸軍の勝利は、この二人の二人三脚に負っていた。大山は児玉の作戦を全面的に信頼し任せ切った。任せた以上は口出しをしない。そしてその結果に対しては、自分が責任を取ればいい。大山はこのスタイルを貫いた。
  秋山好古少将率いる騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されるという報告が、司令部に飛び込んできた。秋山旅団が崩れれば、全軍が分断される。司令部に戦慄が走った。情報が錯綜。児玉の怒声が飛ぶ。ただごとではない雰囲気が大山の部屋にも伝わってきた。大山は、この時「おいが、指揮をとる」と決断したという。
  しかし咄嗟に思った。兄さぁ(西郷)だったらどうするだろうか。そう思い返したとたん、大山は軍服を脱ぎ、わざと寝る支度をして、眠そうな顔でドアのノブに手をかけた。そして、とぼけた調子で、「はー、なんじゃ、にぎやかじゃのう」。みんなあっけにとられて、寝間着姿の大山に目を向けた。「さっきから、大砲の音がしちょりますが、今日はどこぞで、いくさでもやってござるのか?」。
  大山の間の抜けた声に一人が笑った。それが引き金となって、司令部の全員が笑い出した。司令部に漂っていた緊張感が一気に和らぎ、冷静さが戻り、状況把握が的確になされるようなったという。大山は、決して愚鈍なリーダーではない。むしろ頭の回転はすこぶる速い。状況認識も的確である。しかし、知っていながら、知らないふりをする。これは忍耐力と胆力がなければ、できないことなのだ。大山流統率の真髄であった。

愛妻家で子煩悩

  日露戦争後、大山は那須(栃木県)の別邸で農作業などに打ち込む悠々自適の生活に入った。彼を総理大臣に推戴しようとする動きもあったが、これを固辞。政治的な野心とは無縁の男だった。家人に対しても、部下に対しても、威張ることがない。人の悪口を言うこともない。先妻の死後、後妻に入った捨松は、そういうところが大山を好きになった理由の一つだったと言っている。私心なく、海のように広い心を持ち、誰に対しても謙虚な大山の姿は西郷隆盛を彷彿とさせた。
  愛妻家で子煩悩も、大山の特長の一つであった。仕事を終えると寄り道をせず、まっすぐに家族のもとに帰る習慣は生涯続いた。芸者遊びなどを好まず、家族と過ごす時を大切にしたのである。そんな家族に見守られながら、1916年12月10日、大山巌は74年の生涯を終え永眠した。妻の捨松は、大山が意識朦朧の中、「兄さぁ」とうわごとを言うのを聞いている。「やっと西郷さんと会えたのね」。捨松は夫にそう語りかけた。



a:15583 t:2 y:6

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional