杉本鉞子 
(すぎもとえつこ) 

欧米人に日本文化を紹介 
厳格な武士道教育  娘の教育のため再度渡米  

英文で書かれた日本文化論として有名なのは、『武士道』(新渡戸稲造)、『代表的日本人』(内村鑑三)などが挙げられる。杉本鉞子の『武士の娘』も、それらと比べ何の遜色もない名著である。武士道の教育を骨の髄まで受けた日本女性であるからこそ、アメリカ生活の中で書き得たことなのである。

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『武士の娘』を英文で書く

杉本鉞子

  杉本鉞子は、『武士の娘』の著者である。日本人でこの本を知る者はごく稀であるが、日本を訪れる欧米の留学生の多くは、来日前に福沢諭吉の『福翁自伝』と共に、『武士の娘』を読んでいるという。なぜなら、明治時代に書かれたこの本は、英文による日米文化比較論であるからだ。
 由緒ある武家の娘として育った杉本鉞子は、日本文化に対する幅広い教養を身に付けていた。また長い米国生活を経験し、米国のキリスト教文化をこよなく愛した。そんな彼女であるからこそ、欧米人に日本文化を紹介することが可能であったのである。

13歳で婚約

  杉本鉞子が生まれたのは1874年、明治の時代になって7年目のこと。越後の長岡藩(現在の新潟県長岡市)の藩主(牧野氏)に仕える筆頭家老(重臣)である稲垣平助の娘として誕生した。武士の時代が終わったとはいえ、鉞子は厳格な武士道の教育を受けて育った。鉞子の「鉞」は、木を伐る「まさかり」を意味する。強い精神を持った武士の娘として育って欲しいという親の願いが込められている。
  鉞子に対する具体的な教育は6歳から始まった。もっぱら儒教の古典の素読(声を出して読む)である。学習中は畳の上に正座、手と口を動かす以外は微動だに許されなかった。鉞子が一度だけ、ほんの少し体を傾けたことがあったという。それを見た師匠の顔に驚きの表情が浮かび、厳しくたしなめられた。「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。お部屋に引き取ってお考えになられた方がよいと思います」。鉞子は「恥ずかしさのあまり、私の小さな胸はつぶされるばかりでした」と述べている。こうして、制御の精神を身に付け、穏やかな中にも威厳を備えた「武士の娘」杉本鉞子が育っていくのである。
  鉞子に縁談の話が持ち込まれたのは、13歳の時。アメリカに渡っていた兄が、父の死後戻っており、アメリカで彼の親友となった杉本松雄を鉞子の結婚相手として紹介した。13歳の鉞子は母に呼ばれ、「神仏のお守りがあって、お前の嫁入り先が決まりました」と告げられた。鉞子に選択の余地はなかった。当時の考えでは、結婚は個人の問題ではなく、家全体に関わること。鉞子は相手が誰であるかさえも尋ねなかったという。
  母に不安がなかったわけではない。それは、異国の地に娘を送ることではなかった。杉本家に嫁ぐ娘に対し、杉本家の家風を仕込んでくれる姑や年配の婦人がいるのかどうか。これが最大の不安であったのである。渡米直前、杉本松雄からの便りで、アメリカの名家の婦人が親代わりになって、鉞子の面倒を見てくれると書いてあったので、母の不安はすべて解消された。
  実際に鉞子が渡米したのは24歳。十年ほど東京で英語の勉強と花嫁修業をしながら、渡米の準備をした。現在の青山学院の前身であるミッション・スクールに入学した鉞子は、外国人の教師たちの率直で自由な態度に感動し、やがてキリスト教に入信した。

ウィルソン家との親交

  鉞子が杉本松雄の待つアメリカのオハイオ州シンシナティに向かって、横浜港から出帆したのは1898年、24歳の時である。シンシナティ駅に到着すると、夫となるべき杉本松雄が迎えに来ていた。この時が初めての出会いであった。二人は、鉞子の世話役を買って出てくれたウィルソン家の邸宅に向かった。ウィルソン家は、後にウィルソン大統領を出した一族で、この地方きっての名家として、知られていた。当主夫妻は来日経験もある親日家で、日本商品を扱う店を経営していた松雄の良き顧客でもあった。
  鉞子に最も強い影響を与えた世話役が、この当主の姪に当たるフローレンス・ウィルソン。松雄と鉞子の二人は、12年間の長きに渡ってフローレンスとその母と共同生活を送ることになる。厳格なピューリタンの伝統を守るウィルソン一家の家風は、鉞子を育てた武士道精神と相通ずるものがあった。
  鉞子がアメリカ生活に自然にとけ込み、快適で幸福に満ちた生活を送ることができたのは、ひとえにフローレンスのおかげであった。鉞子にとって時には母であり、時には姉でもあるという存在。生涯独身を貫き、鉞子の家族に寄り添いながら、そのホスピタリティの精神で、鉞子一家を支え続けた女性であった。

夫の死

  心優しい夫と慈愛に満ちたウィルソン家の人々、また親切なシンシナティの人々に囲まれての生活は、鉞子にとって理想郷のように思われた。花野、千代野と名付けた二人の娘にも恵まれ、幸福に満たされ日々を過ごしていたのである。しかし、幸福な日々は長くは続かなかった。日本商品を扱う夫の事業が、取引上の思わぬ手違いから、破産宣告を受けてしまったのである。
  1年後には再建の見込みがあったので、鉞子と二人の娘は里帰りをかねて、一時日本に帰国することになった。帰国直後のこと、鉞子のもとに驚きの電報が届いた。盲腸炎による夫の不慮の死が告げられていた。事業の倒産による傷がまだ癒えない時期の夫の死。楽しかった過去は闇の中にかすみ、明るい未来は忽然と姿を消してしまった。鉞子は語っている。「いとしい我が子と私に残されたものは、別離の悲しみと長い寂しい旅路ばかりでありました」。
  しかし悲しんでばかりいられない。二人の娘を育てなければならないのだ。経済的に自立する必要に迫られた鉞子が選んだのは、東京での英語教師の道。フレンド女学校(現在の普連土学園)で英語を教えることにしたのである。
  武士の娘として、いかなる困難にも耐え忍ぶ気丈さを身に付けていた鉞子ではあった。しかし、寂しさがこみ上げてくることもある。東京のこじんまりした家に入居したばかりのころ。4歳の千代野は、母の着物に顔を埋めながら、「ねえ、お母様、お祖母ちゃまとお祖父ちゃまの写真のある家に帰りましょうよ」と言った。アメリカの家には、鉞子の両親の写真が飾ってあった。幼い千代野はその家が懐かしかったのである。それは鉞子とて同じ。それまで抑えていた気持ちが一気に涙と共に溢れ出て、鉞子は千代野を抱きしめて、畳に打ち伏して、むせび泣いた。

教育の悩み

  日本での生活で鉞子を悩ませた最大の問題は、娘の教育であった。アメリカで生まれ育った二人の娘は、生活習慣も価値観も異なる日本の学校になかなか馴染めず苦しんでいた。ある日のこと、鉞子が外から帰ってくると二人の娘が庭で遊んでいた。それは日本の家をアメリカの家に見立てて懐かしむ遊びであった。
  花野は母が聞いているのも知らず、千代野に言った。「このことはお母様に言っては駄目よ。心配なさるから」。人一倍母思いの花野は、アメリカに郷愁を感ずる自分の気持ちを母の前では押し殺していたのである。二人はその後、手を取り合ってアメリカの国歌を歌い始めた。鉞子は、その場を離れて、隣の部屋に入って忍び泣いた。
  鉞子の母が上京し、娘たちに厳格な躾教育を施すにつれ、娘たちは徐々に日本風に淑やかになった。しかし、その反面、その目から輝きが消えていくのを鉞子は感じていた。「私の一声に答えて、飛び上がってくる素早さはどこへ行ったのでしょう?あの愉快さ、熱心さはどこへ行ったのでしょう?」。アメリカにいた頃よく着ていたサージの服を取り出し、それに顔を埋める花野の姿を見るにつけ、鉞子の心は大いに揺れた。日本の風土の中で、賑やかで元気一杯だったの娘の個性が押し潰されていいのだろうか。

再度アメリカへ

  娘たちへの躾教育に熱心だった母の死を契機に、鉞子はついに再度の渡米を決断した。夫の松雄は常日頃よく言っていた。「欧米の婦人の持つ、人を包む朗らかさを学びたいものだ。せめて私たちの子供たちだけは、桜の花のような温かさ、賑やかさを持たせたい」と。それを思えば、渡米の決断は死んだ夫の遺志に適うように思えたのである。15歳の花野の喜びようは大変なもので、足取りも軽く顔に輝きが戻ってきた。
  鉞子と二人の娘が、「アメリカの母」と慕うフローレンスの待つアメリカに向かったのは1916年のこと。鉞子42歳の時である。いくら子供の教育のためとはいえ、フローレンスがいなければ、おそらく渡米の決断はできなかっただろう。松雄は臨終に際し、フローレンスに「家族を頼みます」と言って息を引き取ったという。フローレンスは、松雄とのこの約束を生涯守り通した杉本家の恩人であった。
  娘たちにより高い教育を受けさせるべきだと言うフローレンスの助言に従い、彼らが生活の場としたのはニューヨーク。二人の娘を養うため、鉞子は筆一本で生計を立てていく決意を固めるのである。しかし、ニューヨークでの文筆活動は競争が激しく容易ではない。日本を紹介する文章を新聞、雑誌に寄稿することから始めたが、一向に採用されず、落胆の日々が続いた。それでも根気強く投稿を続けた結果、彼女の文章がある著名な編集者の目に止まり、雑誌「アジア」に10回に渡る連載の依頼があった。自分の半生を物語風につづったもので、連載終了後に『武士の娘』として刊行されることになる。
  この本は世界7カ国に翻訳され、英語版と日本語版は今なお増刷を続けている。さらにこの連載が契機となり、鉞子は1920年から27年までの7年間、ニューヨークの名門コロンビア大学で、日本語と日本文化を教える講師を勤めることになるのである。
 1 927年、鉞子は53歳の時、前後二十数年間に及ぶ米国生活に区切りをつけて帰国した。日米戦争に向かう困難な時代ではあったが、日米が互いに溶け合う日を夢見ながら、76歳で生涯を終えるまで、日米の相互理解のために尽力したのである。鉞子を知るシンシナティの人々は、鉞子亡き後も、彼女を「グレート・レディ」と称して敬愛したという。偏狭なナショナリズムからも、卑屈な西洋礼賛からも、自由であった鉞子の生涯は、21世紀に生きる者たちへ一つのモデルを提供していると言えるだろう。



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