Top>向学新聞現代日本の源流>鈴木貫太郎


鈴木貫太郎 
(すずきかんたろう) 

戦争終結内閣の首相 
天皇が最も頼りにした側近  忠誠無比を貫く 

  外国に憧れて海軍に入った鈴木貫太郎は、アメリカを始め世界を見て回った。そして太平洋を戦争の海とすべきではないという信念を持つにいたる。これは国際協調を旨とする昭和天皇と全く同じ考えであった。天皇の意を受けて、貫太郎は戦争終結に尽力した。

無私無欲の精神

鈴木貫太郎

  鈴木貫太郎は、明治、大正の時代に活躍した海軍の軍人である。昭和の時代には、天皇の侍従長に就任、昭和天皇が最も信頼した人物だった。さらに政治家でもあった。日本が始めて経験する敗戦、その最も困難な時代に政治の舵取りを託された男、それが鈴木貫太郎である。
  海軍時代の彼の口癖があった。「軍人は政治に関わるべきではない」。これは彼の確固たる信念であり、政治に介入しながら戦争への道を暴走した軍部タカ派に対する批判でもあった。しかし皮肉なことに、彼が関わりを避けてきたその政治家として、彼の名は歴史に残ることになった。日本の歴史は、彼の堅い信念を曲げさせるほど強力に彼を必要としたのである。政治的駆け引きが得意だったわけではない。行政能力に優れていたわけでもない。彼にあったのは「無私無欲の精神」であった。その精神一つで、国の運命を背負って立つのである。

「モーニングを着た西郷隆盛」

  鈴木貫太郎は、1867年12月24日に生まれた。明治政府ができる前年である。生まれた場所は、大阪の泉州。明治になってすぐ、父は江戸(東京)に移り、その後、千葉県にある関宿に移った。落ち着いたのは、父が群馬県庁に勤めることになり、前橋に住むようになってからである。貫太郎は11歳になっていた。
  父は貫太郎を医者にさせたかった。自らが下級官吏で薄給だったからである。しかし、貫太郎は海軍を志願した。海軍に入れば、外国に行ける。こんな漠然とした外国への憧れを抱いていたのである。もちろん父は大反対である。関東出身者には軍人としての立身出世の道はないと言われていた時代である。幕末、関東勢は徳川側に付いたからである。
  息子の熱意に父も折れ、海軍兵学校の受験が決まった。猛勉強の甲斐あって、1874年海軍兵学校に見事一発合格を果たした。海軍人生の始まりである。
  海軍時代、貫太郎に最も大きな影響を与えた人物が、山本権兵衛(薩摩出身、後の海軍大将、首相)であった。21歳のとき、砲艦「高雄」の乗組員となり、その艦長が山本であったのだ。山本の口癖が、「俺の命は西郷隆盛先生からの預かりものだ」であった。「俺は西郷先生と一緒に死んだつもりで、お国に命を捧げる決意をしている。だから、何も怖いものはない」。貫太郎は直接西郷を知らない。しかし、山本が西郷との思い出を、声を震わせ、目を潤ませながら語るのを聞いて、いつも胸が熱くなった。
  後に鈴木貫太郎は「モーニングを着た西郷隆盛」と称された。誠心無比、無私無欲の生き方が、西郷隆盛を思わせたからである。山本権兵衛から受けた薫陶のたまものであろう。

侍従長として

  1929年、鈴木貫太郎は海軍の軍令部を経て、昭和天皇の侍従長に任命された。侍従長とは天皇の側に仕え、何かと相談に乗るという重職である。
  当時、年若き天皇の憂慮は深まるばかりであった。1931年の満州事変、翌年の満州国建設、続いて国際連盟の脱退。陸軍による暴走は歯止めがかからず、日本は孤立化の危機に立たされていた。国際協調を信念とする天皇は、国際連盟脱退には終始反対の意向であった。しかし政府は陸軍に押し切られて、ずるずると脱退まで至ってしまったのである。
  天皇の眠れない夜が続いた。夜遅く、貫太郎が天皇から呼ばれることも少なくなかった。貫太郎が宮中に駆け付けると、政務室に憔悴しきった天皇が座り込んでいる。貫太郎の顔を見ると安堵し、時局についての意見を求めることが度々あったという。貫太郎は天皇の最も頼れる側近であり、なくてはならない存在になっていた。
  貫太郎が侍従長を勤めた約8年間は、軍部のテロにより内閣が次々に倒れる恐怖の時代であった。1936年、2・26事件が勃発。国家改造を要求する青年将校のクーデターである。狙われたのは総理大臣の岡田啓介、内大臣の斉藤実、蔵相の高橋是清など政権の中枢人物。それと侍従長の鈴木貫太郎であった。
  26日早朝、安藤輝三を指揮官とする150名の部隊が鈴木邸を襲った。熟睡中の貫太郎の部屋に十数名の兵士が踏み込み、貫太郎を取り囲んだ。下士官2人が交互に拳銃を発射。4発が68歳の老侍従長に命中し、貫太郎はその場に倒れた。誰かが「とどめ、とどめ」と叫ぶ。下士官が銃を構えた次の瞬間、部屋の隅で銃を突きつけられていたタカ夫人が、「武士の情けです。とどめだけは、やめてください」と叫んだ。
  そこに指揮官の安藤大尉が入って来て、状況を見て取るや、「気をつけっ!」と号令。兵士たちは反射的に直立する。「閣下に対して、敬礼!」。そして「よし、引き揚げ!」。兵士たちは一斉に部屋を出た。これが貫太郎の生死を紙一重で分けた瞬間であった。
  指揮官の安藤は、2年ほど前、貫太郎に面談を申し込んだことがある。貫太郎の話を聞いた安藤は、「西郷隆盛のように腹の大きい人物だ」と感嘆したという。この安藤が鈴木邸襲撃を担当することになったことは、不幸中の幸いであった。
  「俺は運のいい男だから、俺についてくれば間違いない」。戦時中、彼は常に部下にそう言って激励したという。この度の襲撃でも、まさに「運」が彼に味方した。やらねばならない最後の仕事が残されていたからだ。

鈴木貫太郎内閣誕生

  アメリカと戦争してはならない。世界を見て回った貫太郎のこれが国際認識であった。海軍兵学校卒業後、初の遠洋航海でアメリカに渡り、実感したことがある。この国は、いずれ世界一の大国になるだろう。こんな国と戦争したら、日本はひとたまりもない。
  1917年練習艦隊の司令官としてアメリカに渡った際、サンフランシスコでの歓迎会で次のようなスピーチをした。「日米戦争は考えられないことである。太平洋は文字通り、太平(平和)の海であり、神が貿易のために造られた海である。この海を軍隊輸送に使うとしたら、両国共に天罰を受けるであろう」。この考えは生涯変わらなかったが、彼の願いむなしく日本は対米戦争に突入し、太平の海を戦争の海にしてしまうのである。
  開戦当初のはなばなしい戦果に国民が熱狂する中、貫太郎は醒めた目で戦況を眺めていた。日米の国力の差は歴然としている。早期講和しか日本の選択肢はないはずだ。ところが、緒戦の大勝利に酔いしれて、政府と軍部の頭から早期講和が吹き飛んでしまった。
  貫太郎が懸念したとおり、戦争が長引くにつれ戦況は絶望的となった。44年に東条英機内閣の総辞職、続く小磯国昭内閣も1年持たなかった。後継首相に誰を推すか。重臣会議(首相経験者など)で白羽の矢が立ったのが、当時枢密院議長の鈴木貫太郎だった。忠誠心が厚く、天皇の信任も厚い。それに軍人経歴も申し分ない。全員一致であった。
  貫太郎は、「自分は政治に疎いし、その任ではない」ときっぱりと固辞した。この返答は予期されたものだった。貫太郎は忠誠の人である。天皇の大命が下れば話は別だ。天皇も鈴木内閣を強く望んでいたのである。
  貫太郎は天皇に拝謁した。固辞する貫太郎に天皇は、「頼む。どうか、曲げて承知してもらいたい。この危急の時、もう他に人がいないのだ」と懇願した。天皇に懇願させた自分を悔いながら、「不肖鈴木貫太郎、身命を賭して、ご奉公申し上げます」と申し上げた。その時彼は、天皇は戦争の早期終結を望んでおられると直感した。

聖断下る

  戦争を止めることは、始めるよりはるかに難しい。首相が戦争終結(降伏)を示唆するだけで、軍部のクーデターが発生し、戦争貫徹派に政権は握られる。貫太郎は、秘かに期するものがあった。この内閣は戦争終結内閣である。何が何でも、この内閣で戦争を終わらせなければならない。戦争終結のチャンスはおそらく1度だけ。失敗は絶対に許されない。その一度のチャンスのために、戦争貫徹派の陸軍を味方につけておく必要がある。
  就任演説で、貫太郎は戦意高揚を強く訴えた。陸軍を安心させるためである。1945年5月末の東京大空襲で、皇居が焼失した後ですら、貫太郎は徹底抗戦を断固主張した。これには天皇も失望したほどであった。貫太郎は、まだ時ではないと考えていたのである。
  7月の末、アメリカからポツダム宣言の内容が示された。これは日本に無条件降伏を求めるものであったが、天皇について一言も触れられていなかった。その頃、内閣の意思は戦争終結でまとまっていた。しかし天皇の身分保障がなされるのか、論争はその一点に絞られていたのである。有利な条件を得るためには、本土決戦も辞さない。これが陸軍の主張である。天皇の安全に対する確約を取れない以上、貫太郎も静観するしかなかった。
  8月6日、原爆が広島に投下。市街の大半が一瞬にして壊滅した。ついに来るべき時が来た。一気に決着をつける時、戦争終結のたった一度のチャンスの時である。8月9日午前、最高戦争指導者会議が開催。ポツダム宣言受託の是非が論じられた。議論の最中、2発目の原爆が長崎に投下された。暗然たる思いの中、重苦しい議論が続いたが、結論はついに出なかった。即時受託派が3名。あくまで条件を付けるべきという条件派が3名。続いて開催された閣議でも同様に議論は分かれたままである。
  貫太郎は初めからこの結果を予想し、御前会議(天皇参加の会議)で決着をつける腹づもりであった。きわどい多数決でポツダム宣言を受託したとしても、陸軍は猛反発しクーデターは必至であった。聖断(天皇の決断)を持って戦争を終わらせるしかない。そのためにぬかりなく、周到に準備していた。一刻も猶予できない。陸軍過激派の巻き返しもあり得るし、原爆の東京投下の懸念もあった。
  その日の夜11時半、御前会議が開催。参加者一同の発言が終わり、貫太郎はおもむろに立ち上がり、天皇の判断を仰いだ。天皇の判断は明快だった。「これ以上、戦争を続けても国民を苦しみに陥れるばかりである。私は涙を持って即時受託に賛成する」。聖断が下った。あちこちから嗚咽がもれたが、貫太郎は毅然たる態度を崩さなかった。まだ終わっていないことを知っていたのだ。
  予想通り、陸軍の猛烈な突き上げが始まった。貫太郎は、14日再び御前会議を開催し、天皇の聖断を仰がざるを得なかった。しかし天皇は少しも変わっていない。「自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい」と語り、さらに続けて「この際、私として、なすべきことがあれば何でも厭わない」とまで言い切った。これを聞き、閣僚たちの多くはむせび泣き、床に崩れ落ちて号泣する者もあったという。翌日15日、天皇による玉音放送が流れ、ついに戦争は終わった。ここに鈴木内閣の使命も終了したのである。
  その日の夕方、貫太郎は参内した。天皇に閣僚全員の辞表を手渡すためである。「鈴木、良くやってくれたね」と天皇は貫太郎をねぎらった。「本当に良くやってくれた」ともう一度言った。天皇の目にうっすらと光るものを見た貫太郎は、肩を小刻みに震わせた。大粒の涙が、堰を切ったようにあふれ出て、床にぽたぽたと落ちた。
  3年後の1948年4月13日、貫太郎は帰らぬ人となった。「生涯一事」という言葉があるが、鈴木貫太郎は「戦争の幕引き」という最も困難な仕事をやり遂げるために生まれてきたような男であった。そして信念と忠誠心を持って、それを見事に成し遂げた。意識が朦朧とする中、タカ夫人の手を握りながら、うわごとのように「とわの平和、とわの平和」と発し続けたという。これが最期の言葉であった。享年82歳。



a:26547 t:11 y:9