田島道治 
(たじまみちじ) 

田島道治


国のために奉仕した生涯 
私費で学生寮の建設  最も困難な時期の宮内庁長官 

  日本の将来を担う若者の教育に尽力した田島道治の原点は、新渡戸稲造、後藤新平との出会いであった。この二人は教育と人材発掘に情熱を傾けた明治の大物。人生の師とも言うべきこの二人の先輩に同行しての欧米視察旅行で、一流の国際人養成の必要性を感ずるようになる。

教育への情熱

  田島道治は銀行家であり、宮内庁長官を務めたこともある。さらにソニーの会長までも経験した異色の人物である。今日、多くの日本人は彼の名を忘れた。それは歴史的業績が少なかったからではない。派手なパフォーマンスを極端に嫌い、堅実に仕事をこなす地味な実務家であったためであろう。
  しかし彼にはもう一つ別の、教育者としての顔があった。国の将来のため、リーダーを育成したい。このような教育への情熱を生涯抱き続けた人物である。日本の将来を託すべき東大の学生のために、私費で学生寮を建設してしまったほどである。名を残そうという考えからではない。国を思う真摯な気持ちの表れであった。

8歳で母の死

  田島道治が生まれたのは1885年、現在の名古屋市中区の伊勢山町である。父は五郎作、母は芳、二人の三男として生まれたが、うえ二人が出生後すぐ死亡したので、事実上の長男として育てられた。家は代々、三河国(愛知県東部)の高浜で酒造業を営み、財をなした。しかし、幕末から明治にかけての激動期に家業を続けることが不可能となり、田島一家は名古屋に転居を余儀なくされた。その後、道治が誕生したのである。
  道治が最愛の母を失う不幸に襲われたのは、8歳の時である。心に生じた空白を彼は勉強に打ち込むことで埋め合わせた。小学校を卒業後、名古屋の名門校愛知県立第一中学校に進学。しかし抑えがたき向学心は、名古屋では満たされることはなかった。彼は東京の名門校府立一中(現在の日比谷高校)への転校を決意する。名古屋の名門を中退して、単身で上京するというのだ。当然、父は反対である。その父を「帰ってきたら、必ず家業を継ぎます」と言って説得し、上京を強行した。道治はこの時15歳であった。
  その後、一高(現在の東大教養部)に進学し、1906年には東京帝国大学に入学、法律学科に学ぶことになった。

新渡戸稲造と後藤新平

  東大に進学した田島道治は、彼のその後の人生を決定づける人物と出会うことになる。一高の校長、新渡戸稲造である。道治の卒業直後に一高の校長になった新渡戸は、東大教授を兼任しており、学生との直接交流を心がけていた。週1回、学生のため家を開放し、彼らとの談笑を楽しんだ。新渡戸の人格と教養に感銘を受けた多くの学生が、彼のまわりに集まった。道治は、その中の学生の一人であった。
  新渡戸に傾倒した彼は、思い切った行動に出た。新渡戸家に住み込んでしまうのである。かつて父の反対を押し切って東京に出たように、良いと思うことは迷いなく実行する。こうした一途な性格は生涯変わらなかった。
  新渡戸家に住み込んだ道治は、新渡戸から実に多くを学んだ。新渡戸は常日頃、「人が世に生まれた大目的は、人のために尽くすことにある」と語り、その言葉を実践するかのように、数多くの大学設立に関与していた。後に、道治が私費を投入して大学の学生寮を設立したのは、新渡戸の影響であったことは間違いない。
  東大卒業後、道治は父との約束通り名古屋に帰った。家督を継いだ彼は、愛知銀行に勤務することになる。銀行に勤めて5年後の1916年の暮れ、道治の人生を左右するもう一人の人物と巡り会うことになった。後藤新平である。後藤は寺内正毅内閣の鉄道院(現在の国土交通省)総裁に就任し、秘書官に田島道治を強く望んだ。新渡戸の推薦であった。秘書官就任を渋る父の五郎作を、新渡戸は自ら名古屋に乗り込み説得した。こうして、官界の中枢に身を置く道治の活躍の舞台が準備されていくのである。
  後藤は「一にも人、二にも人」という信念を持ち、人材発掘に情熱を燃やす大物政治家。その秘書として、あるいは人事課長として、道治は辣腕をふるい、大いに後藤を助け、その評価を不動のものとした。新渡戸と後藤、この二人の存在が、教育者田島道治の生き方をほぼ決定したと言っても過言ではなかろう。

欧米視察旅行

  鉄道院の仕事は2年で終わった。寺内内閣の総辞職により、後藤が総裁を辞任し、道治も秘書官を辞めざるを得なかったからである。野に下った後藤はゆっくり欧米を回り、見聞を広めたいと考え、新渡戸を誘い、その門下生である田島道治、鶴見祐輔らを同行した。時は1919年3月、ちょうど第一次世界大戦が終了した直後、欧米は大きく変わろうとしていた。
  アメリカのサンフランシスコを皮切りに、シカゴ、デトロイト、ニューヨークなどを訪れた。後藤も新渡戸も、青年たちを同行したのは、日本の将来を担う彼らの成長を願ってのことである。行く先々で彼らに意見を言わせ、その議論を楽しんだ。
  旅が4ヶ月目に入ろうとしている7月の半ば、朗報が一行に舞い込んだ。新渡戸が国際連盟の事務局次長に任命されたという。道治にとって初めての海外旅行の最中のことである。師であり、いま目の前にいる新渡戸が国際舞台の場で、世界平和の主役の一人として登場しようというのだ。道治は身震いするような高揚感を覚えたことだろう。

明協学寮

  田島道治が学生寮(明協学寮)を開寮したのは1937年、昭和銀行(後に安田銀行に吸収合併、現在みずほ銀行)に頭取として在職していた時期である。個人で本格的な学生寮を建てるのは、当時としても珍しいことで、昭和銀行から出る予定の退職金を担保に借金をして建てたもの。「私の道楽と思って、許してくれ」と妻に語ったという。
  世界に出しても、物怖じしない国際人を育てたい。そのためには、まず一流の住環境を提供しなければならないと考えた。10人の学生たちのため、18畳の談話室を設け、家具や絨毯は一流品をあつらえた。当時としてはかなり贅沢なもので、道治の思い入れのほどがうかがわれる。しかも寮費は当時の相場の半分以下、食材の実費だけであった。
  また月例会と言って、各界の一流の人物を呼んで、月1度一緒に会食し、話を聞き、歓談する場も設けた。一流の国際人になってもらいたいという願いからである。道治が寮生に願った人間像はまさに世界に通用するジェントルマンであった。
  さらに週1回の『論語』講読。毎週月曜日の朝、道治の講釈で行われた。これは戦時下の薄暗い灯火管制下でも続けられたという。リーダーとしての精神、生き方を学んでほしかったのであろう。道治は常に自分の一生は国のためにあると考えていた。若い有為な学生を育てることで、国の役に立ちたかったのである。

学寮の焼失と再建

  道治の夢を託した明協学寮は、戦争末期の1945年4月13日、B29の東京空襲により、無惨にも焼失した。焼け跡をじっと眺め、手にしたステッキで焼け残った電柱を何度も激しく叩きながら声を発する道治がそこにいた。よほど悔しかったのだろう。敗北を見通していながら、軍部の独走にブレーキをかけられなかった自責の念などが去来していたのかもしれない。
  寮も、自宅も失った田島家の人々を助けたのは元寮生たちであった。彼らは、今こそ道治に恩返しをしようと駆けつけたのである。彼らの目に映ったのは、焼け跡の敷石に肩を落として悄然として腰掛けている道治の姿であった。その姿を見て、元寮生たちはみな泣いた。道治は彼らに助けられ、残った荷物を親類の家に運び、そこにしばらく身を寄せた。
  しかし、これで彼の教育への情熱が潰えたわけではなかった。宮内庁長官を辞し、東京通信工業(現ソニー)の監査役であった1957年9月、麻布に土地を買い、学生寮の再開に踏み切った。自宅はまだなく、仮住まいの身でありながらである。道治と一緒に土地を物色した元寮生の西村秀夫は、「どうしても寮を、という執念のようなものが伝わってきました」と語っている。この時道治は、72歳となっていた。この麻布明協学寮は、田島家の家庭の事情で2年後に閉鎖となってしまうが、その2年後に高輪に学生寮を開設した。三度目である。76歳の道治は、なお教育への情熱を失ってはいなかった。

「精神の貴族」

  道治の生涯に一貫して見受けられるのは、国のために役に立ちたいという信念である。1948年に芦田均内閣から宮内府(後に宮内庁)長官の就任要請があったとき、何度も固辞しながらも、最終的に引き受けたのは、国のためを思えばこそであった。天皇制の存続そのものが問われた時期のことである。大変な仕事になることは明らかだった。
  芦田も必死に道治を説得した。日記に「田島道治君に断られては行き詰まる。別れるとき、目に涙がいっぱい出た」と書いている。首相の涙の説得に道治はついに折れ、就任を引き受けた。死をも覚悟の心境だったに違いない。
  当初、道治は昭和天皇は退位すべきと考えていた。しかし天皇に身近に接し、その公正無比の人柄に触れ、態度を変えた。昭和天皇のもとで日本は復興を目指すべきと考えるようになった。道治は次のようなエピソードを語っている。台風が東京に上陸するという予想に反し、関西に上陸したときのこと。「東京は免れまして結構でございました」と道治が言うと、天皇は即座に「関西に上がっているじゃないか」と言われた。関西の被害は、自らの苦痛でもあったのである。道治は、天皇その人の魅力にすっかり惹かれてしまった。
  約5年間の宮内庁長官として、道治は立派に勤めを果たした。天皇制の存続はもとより、昭和天皇の退位論に終止符を打ったのも、道治の尽力によるものであった。さらに宮中改革に積極的に取り組み、今日の「開かれた皇室」にした功績は計り知れない。ある皇室関係者は、道治を「あの方は、恩人中の恩人です」と語っている。
  長官の仕事に誠心誠意取り組むため、田園調布や成城に持っていた土地は全て売り払い、交際費に当てた。自分の給料だけではとても足りなかったからだ。長官の自分が、ケチな振る舞いをしては皇室のためにも、日本のためにもならないと考えてのことである。
  ソニーの役員として、小さなバラック小屋の時代から、井深大や盛田昭夫を支え続けたのも、彼らの熱気に魅力を感じ、日本の未来を託しうる人材と考えていたからである。それは、明協学寮の学生たちに向けたまなざしと全く重なるものであった。根っからの教育者であったのだ。
  1968年12月2日、ついに帰らぬ人となった。生前、彼は次のように語っていた。「自分の力で少しでも世の中が良くなったことに、自分が若干の奉仕をしたという喜びで世を去りたい」。国家、社会の役に立ちたいという生き方を生涯貫き、自分の役割を忠実に果たそうとした。まさに「精神の貴族」と呼ぶにふさわしい生き方であった。享年83歳。明協学寮の元寮生たちは、今もなお道治の命日に「明協会」を開いている。




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