東郷茂徳
(とうごうしげのり)
平和を愛したA級戦犯
韓人として差別された日々 国家に貢献するため外交官に
日本の陸軍がヒトラー率いるドイツと同盟を結ぼうとしていた時期、その危険性を誰よりも理解していた一人の外交官がいた。東郷茂徳である。彼は外交官として、若い頃ドイツに長期滞在し、ドイツ人を妻とする国際人であった。研ぎ澄まされた国際感覚と頑固な平和主義で、戦争回避に奔走した。
悲劇の外交官
東郷茂徳は、昭和期の屈指の外交官であり、外務大臣を2度も務めた政治家でもある。しかし同時に悲劇の人でもあった。外交官として、あるいは外相としての彼の活躍は、軍部の独走に頑強に抵抗したことで評価される。平和を希求し、戦争回避に命をかけた人物であった。にもかかわらず、開戦時の外相であったため、極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、A級戦犯(重要戦争犯罪人)の汚名をきせられ、獄中にて無念の死を遂げた。
終戦時、外相であった東郷は閣内にあって、早期和平論の急先鋒であった。それ故、軍部から蛇蝎のごとく嫌われ、命も狙われた。しかし、彼は怯むことなく信念を貫き通したのである。彼の平和への信念は、本土決戦も止むなしとする陸軍の主張をぎりぎりのところで食い止め、日本を壊滅の危機から救った。彼の頑固なまでの平和主義は、その出自と決して無関係ではない。
韓人の子孫として
1882年12月10日、東郷茂徳は鹿児島に生まれた。詳しく言えば、伊集院村苗代川の出身である。ここは鹿児島ではあったが、異国の集落であった。三百年程も昔、豊臣秀吉が朝鮮遠征に兵を出した時、薩摩の島津義弘公が韓人の陶工数百名を連れて帰ってきた。その子孫が住み着いた村であったのだ。茂徳も、子供の頃の姓は朴という韓国姓。富裕な陶器商人であった父が、困窮した武士からその株(武士となる権利)を買って、東郷の姓に変えたのである。
ここの陶工たちが製造する薩摩焼は、高い評価を受けており、薩摩藩では彼らの技術を高い水準に保つため、手厚く保護した。藩内では尊敬され、一目置かれる存在であったのだ。誇り高き人々で、江戸時代まで、韓式の衣装をまとい、韓国語を話していた。
しかし、明治になって様相は一変した。近代化を推し進めた結果、近代化の遅れた中国や朝鮮を侮蔑する差別感情が生まれた。鹿児島も例外ではない。かつては敬称であった苗代川出身という立場は、侮蔑の対象に成り下がったのである。
時に暴力を伴ったこの差別感情は、少年の心を傷つけた。同じ日本人なのに、なぜ殴られなければならないのか。三百年前の出自のゆえに受ける差別。溢れ出る屈辱感に茂徳は耐えなければならなかった。それを忘れようとひたすら勉学に打ち込んだ。彼の成績は常に首席であったという。
差別の壁
東京帝大(現在の東大)に入学した東郷は、ドイツ文学科へ進んだ。いずれ小説家にでもなろうとした。受けてきた差別ゆえに、人生の意味を探求せずにはおれなかったのだ。
人生の進路を変える事件が起こる。在学中、肺結核を患い、療養生活を余儀なくされた時のことだ。彼は1年間大学を休学し、日光の中禅寺湖で療養生活を始めた。ふとしたことから一人の女学生と出会う。名は美津、一流旅館の娘である。生まれて初めて東郷は、女性に恋心を抱いた。美津に会っていると、過去の苦い思い出も吹き飛び、病気療養の身であることも忘れてしまう。生きる力が漲り溢れてくるのを感ずるのであった。
療養生活を終えた後も、美津との交際は順調に進み、結婚を約束する仲になっていた。全てが順風満帆、後は美津を迎えるだけである。彼は美津の両親に長文の手紙を書き、結婚を申し入れた。しかし3ヶ月経っても返事はなかった。
実は、美津の両親は興信所(身許などを秘密に調査する会社)を使って、東郷家の身許を調べ上げていた。彼らは三百年前の先祖の血を問題にして、この結婚を阻止したのである。このことが東郷に与えた衝撃は大きかった。忘れかけていた少年時代の傷が生々しく蘇ってくる。理不尽な差別の壁を前にして、立ちすくむばかりであった。
美津との破局は、東郷に一大決心をもたらした。差別の壁が厳然としてある以上、そこから逃げるわけにはいかない。正真正銘の日本人になろう。それには命がけでこの国のために貢献するしかない。まず文学を捨てる決断をした。現実の世界で貢献するためである。そして当時日本で最難関とされた外交官試験に挑戦し、3度目にして合格した。
開戦阻止に奔走
1937年12月末、55歳になっていた東郷は駐独大使としてドイツの土を踏んだ。当時の日本は、日中戦争(1937年7月)直後。日本の陸軍は、ヒトラー率いるドイツと同盟を結ぶことで、中国に権益を有する英米を牽制しようとした。東郷は日独同盟に断固反対、「ヒトラーと組めば、必ず戦争に巻き込まれる。英米と戦って勝つ力は日本にはない」と主張してはばからなかった。ヒトラーはユダヤ人に対する差別、偏見を政策として実行していた。東郷にとって人種差別は他人事ではない。ヒトラーに強い嫌悪感を感じていたのである。
東郷のドイツ駐在は、わずか10ヶ月に過ぎなかった。陸軍から派遣されていたドイツ駐在武官などの東郷更迭運動が強まり、ドイツからも煙たがられたためである。彼は駐独大使を解任され、駐ソ連大使に異動。事実上の更迭である。
1940年9月27日、ついに日独伊の三国同盟が調印された。東郷が最も懸念していたことである。日本はとうとう悪魔と手を結んでしまった。東郷の実感である。開戦(1941年12月)直前の1941年10月、東条内閣が成立。その少し前、東条英機から東郷のもとに電話が入った。外相の就任依頼である。主戦論者の東条が、非戦論者の東郷をなぜ外相に起用しようとしたのか。忠君愛国の塊であり、天皇崇拝者の東条は、英米との協調を希望する天皇の意向を無視できなかったからである。
東郷は大いに迷った。人生最大の岐路と言ってもいい。下手をすれば戦争加害者の一人になる。自分や家族のことだけを考えるなら、外相就任を断ったであろう。しかし国家存亡の時である。この国を見捨てることはできなかった。何としても日米交渉を妥結させ、日米開戦を阻止したい。彼は外相就任を引き受けた。苦渋の決断であった。
戦争回避の道は、困難を極めた。アメリカの要求は、日本軍の中国からの撤退。しかし、これは陸軍が断じてのむことができない。日本が折れるしか、戦争回避はあり得なかった。力の差は歴然としているからだ。
孤軍奮闘の粘り強い戦いも空しく、ついに太平洋戦争が勃発した。外相を辞任する選択肢がなかったわけではない。しかし、それは彼の良心が許さなかった。戦争回避の望みがわずかでもあれば、粘り強く交渉を続けるべきと考えた。もし戦争になってしまったなら、早期終結を目指していくのが、国家に対する自分の義務だと感じていた。この律儀さゆえに、彼は外相の位置に踏みとどまったのである。
戦争終結内閣の外相
1942年9月、東郷は外務大臣を辞任した。「大東亜共栄圏」構想を推進しようとする東条内閣に見切りを付けたからだ。どう美辞麗句を並べようと、この構想は日本のむき出しのエゴにしか見えなかった。それに戦争の早期終結は遠くなるばかりである。
戦局は、東郷が予想したとおり、敗勢は明らかだった。1945年4月7日、戦争終結を目的とした鈴木貫太郎内閣が成立し、東郷はその外務大臣に就任した。この時期の外相は最も損な役回りである。誰もやりたがらない。しかし、あえて火中の栗を拾い、和平のための捨て石になろうとした。これ以上、戦争犠牲
者を出したくなかったからだ。
戦争は、始めることより、やめる方がはるかに難しい。東郷が直面した問題は、陸軍の中に蔓延している精神主義の壁である。「日本の軍隊に降伏はあり得ない。武器を失ったら手足で戦え、手足とも失ったら歯で食いつけ、それも駄目になったら舌を噛み切って自決しろ」と叩き込まれていた。
7月末に出されたポツダム宣言(降伏勧告)を受託すべきかどうか、鈴木内閣の最大問題となった。陸軍は有利な条件を勝ち取るため、本土決戦も辞さない構えである。この陸軍との戦いに東郷は心身をすり減らした。時折、心臓に痛みが走り、血の気のひいた顔に脂汗がにじむ。心臓に疾患を抱えていたのである。文字通り命がけであった。彼を支えていたものは、「終戦に向かう日本の牽引車になる」という使命感。それと、天皇は、戦争の早期終結を強く望んでおられるという確信である。病に倒れるわけにはいかなかった。
禁固20年の判決
広島、長崎に原爆が投下。首相は戦争終結に向けて、一気に動き出した。陸軍を抑えて戦争を終結させるには、天皇に聖断(天皇の判断)を仰ぐしかない。閣僚たちの紛糾する議論を聞いた後、天皇の聖断が下った。「外務大臣の意見に自分は同意する」。2度目の聖断を仰がなければならなくなった時も、外相の考えで行くときっぱりと述べられた。
天皇の言葉を聞きながら、東郷の目に涙が溢れてきた。これまでの苦労が報われた瞬間であった。苦しかった日々が脳裏に浮かんでは消える。これでようやく戦争が終わる。安堵感に包まれた。同時に、慚愧の念がこみ上げてくる。外相として力不足ゆえ、必要以上に戦争を長びかせ、天皇や国民に塗炭の苦しみを強いてしまった。東郷は顔を上げることができず、その場で慟哭した。
戦争回避と終戦工作に、東郷は全エネルギーを使い果たしてしまった。階段の上り下りもできない程、体は衰弱していた。そんな東郷に待ち受けていたのは、残酷にもA級戦犯容疑者としての連行である。戦勝国による東京裁判で東郷に下された判決は、禁固20年。戦争回避にどれだけ努力したかは、一切考慮されなかった。
起訴状に書かれていたのは、驚くべき罪状だった。「平和に対する罪」「殺人及び殺人共同謀議の罪」など。真正の平和主義者が、平和の破壊者、殺人者として裁かれてしまったのである。巣鴨の刑務所生活で、東郷の体力は日に日に衰えていった。1950年9月23日、ついに67年間の生涯に幕を下ろした。自らの保身をはかることなく、国家のために捧げ尽くした生涯は、称賛に値する。不遇ではあったが、決して惨めな人生ではなかった。外交官のあるべき姿を後世に示し、歴史にその名を刻んでいるのである。
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