梅屋庄吉
(うめやしょうきち)
東洋平和の夢を孫文と共有 孫文の革命を支え続けた生涯
日中親善のため孫文像作る
中国で革命を志した孫文を支え続けた梅屋庄吉。二人の友情は、香港での出会いから始まった。二人は東洋平和の夢を共有し、日中親善の実現を心底願っていた。中国の革命はそのための第一歩であったのである。庄吉の生涯は、その夢のために捧げられたものであった。
孫文との誓い
1911年、中国で革命が起こり、清国が倒れた。孫文による辛亥革命である。孫文のこの革命運動を支え続けた一人の日本人がいた。長崎出身の経済人、梅屋庄吉である。日本の映画界で活躍した人物で、映画の輸入業と製作で富を築いた。この金を彼は、一切の見返りを求めることなく、中国革命に注ぎ続けた。
全ては孫文との出会いから始まった。1895年1月5日、香港で写真館を経営していた庄吉のもとに、一人の若い青年医師が訪ねてきた。孫文である。彼は庄吉に熱く語った。「中国を西欧の植民地化の危機から守ることこそ、東洋を守る第一歩ではないでしょうか。しかし、今の清朝では、西欧の植民地化を免れることはできない」。そして庄吉に清朝を倒す計画があることを打ち明け、「私たちの革命を助けて下さい」と頭を下げた。
孫文と庄吉は、前日のパーティで出会ったばかりの仲であった。なのに何故、そんな危険な計画を打ち明けたのか。共通の知人ジェームス・カントリー師(宣教師、英国医学博士)の紹介であったからだ。カントリー師は、教え子である孫文の革命運動のため、自分ができる全てを注ごうと決意を固めていた。そこで信頼に足る人物として梅屋庄吉を孫文に紹介したのである。庄吉は香港では有名な日本人であった。捨て子があれば、拾って養育する。困窮者には惜しげもなくお金を出す。そんな庄吉にカントリー師は絶大な信頼を寄せていたのである。
中国の現状を憂うる気持ちは庄吉も同じであった。「よくそんな大事を打ち明けて下さった。感謝します。喜んでお役に立たせて下さい」。そしてきっぱりと言い切った。「あなたは一刻でも早く、革命の兵を挙げたまえ。私は財を挙げて支援します」と。孫文と手を握りあい、庄吉は孫文の盟友として生きる決意を固めた。そしてその誓いを生涯守り通したのである。その時、庄吉28歳、孫文は30歳であった。
乞食に金をばらまく
梅屋庄吉は、明治新政府ができたばかりの1868年11月26日、長崎で生まれた。父は、貿易会社「梅屋商店」を経営し、長崎と上海との貿易の草分け的存在であった。相当な資産家であったが、質素倹約の慎ましい暮らしぶりであった。一方、庄吉は小さい頃から評判の腕白者で、その突飛な行動でずいぶん父母を困らせた。
たとえば、毎日のように、店の銭箱から金を持ち出していた。自分で使うのではない。町はずれにある乞食部落に持って行き、それをばらまいていたという。父の代わりに債権を取り立てに行っても、先方の話に同情し、借金を棒引きにするだけではなく、持ち金を与えて帰って来ることもしばしばだった。父母はこんな庄吉を見て、「梅屋の家は庄吉のために潰されるのではないか」と嘆いたという。金を持っていると気前よくばらまき、困っている者に惜しみなく差し出す。こうした庄吉の性分は死ぬまで変わらなかった。
香港へ脱出
祖父母や父母の不安に反し、庄吉は商才に恵まれていた。時を読む的確な判断力と度胸。よいと思ったことは、即断即決で実行する。この度胸で精米業、鉱山経営などに手を出し、父が舌を巻くほどの莫大な利益を上げた。しかし、何と言ってもまだ20代半ばの若者である。驕りがあった。米穀市場開設に奔走し、仲買人組長の座におさまった時のことである。米の思惑買いが裏目に出て、大失敗をしてしまう。梅屋家は梅屋商店を除く、全ての土地、財産を手放さざるを得なくなり、庄吉も長崎におれなくなった。
庄吉が逃げ延びた先は、中国の廈門、シンガポール。そして最終的に香港に落ち着いた。ここで生活の糧のため写真館を開設し、孫文と出会うことになるのである。孫文の革命を支える上で、庄吉の才能はいかんなく発揮された。まずは武器集め。どこを押さえれば、武器の入手が可能かという裏情報を的確につかんでしまう。武器購入の費用は全て庄吉が負担したのは言うまでもない。庄吉は可能な限りの金を孫文に提供し続けた。現金が不足すると、友人に手形を書いてまで金を集めたのである。
映画産業
1904年5月、梅屋庄吉は香港を脱出せざるを得なくなった。庄吉の写真館が、反乱軍の拠点となっていると当局に密告する者があったからだ。庄吉の行動は速かった。脱出先をシンガポールに決め、情報を得た数時間後には、埠頭に着いていた。
この脱出が、映画人として活躍する契機となる。あわただしく詰め込んだ荷物の中に、たまたま映写機と映画フィルム4巻が紛れ込んでいた。これは写真器材を仕入れていた会社から購入したもので、そのまましまい込んで忘れていたものであった。
新しい収入の道を考えていた庄吉は、これを見て映画興行を思いついた。当時、シンガポールには映画を上映するところはどこにもなかった。「これは当たる」。持ち前の勘が働いた。そうとなれば行動は早い。大天幕を張って仮設の映画館を作ろうとした。
これに力を貸してくれたのが、シンガポール在住の「興中会(孫文が結成した革命的秘密結社)」の華僑たちである。彼らは故国を離れた中国人で、孫文の革命運動に夢を託していた。孫文に支援を惜しまない庄吉を助けることに彼らは躊躇しなかった。土地の提供、必要な資材の調達、映画の宣伝など、彼らは庄吉の映画興行のため奔走した。
これが当たりに当たった。庄吉は莫大な金を手にすることになる。映画人梅屋庄吉の誕生である。1905年6月、庄吉は50万円(現在では約4億円)という莫大な資金を持って、日本に帰国した。長崎を脱出して12年が経っていた。帰国してすぐ、Mパテー商会という映画興業会社を東京に設立。即断即決の庄吉は、その年の暮れには、早くも映画製作にも取り組み、映画人としての地歩を固めていくのである。36歳であった。
辛亥革命の成功
孫文は、1895年における最初の挙兵以来、7年間で10回武装蜂起をしたが、挫折と失敗の連続であった。しかし、彼は屈しなかった。1911年、ついにその時が来た。広州での挙兵が起爆剤となって、革命運動が一気に全国に波及したのである。
武昌蜂起成功の電報が庄吉のもとに届いた時、庄吉は躍り上がって喜び、すぐ撮影技師を呼び寄せ、中国行きを命じた。孫文の革命をフィルムに収めるためである。そして武昌攻防戦を戦う同志に17万円(現在では1億以上)を惜しげもなく寄付した。
1913年2月、革命の英雄孫文が来日した。庄吉は8年ぶりの再会である。「やっと、この日が来ましたな」。「そう、やっとです」。多くを語る必要はなかった。互いの目を見れば、通ずるものがある。香港で「財をもって支援する」と誓ってから18年が流れていた。その歳月を思い浮かべ、庄吉の胸は熱くなった。その後、孫文歓迎の宴が各地で持たれたが、その記念写真のいずれにも、庄吉は孫文と肩を並べて中央に納まっている。孫文にとって、庄吉がいかなる存在であったかを物語るものであろう。
庄吉は孫文を浅草にある映画館に案内した。辛亥革命の記録映画を孫文に見せるためであった。庄吉は、撮影技師が撮影したフィルムを自ら編集し、孫文に見せる機会を待っていたのである。ガランとした広い観覧席の中央に二人だけで並んで座り、庄吉の合図で映写が始まった。
孫文は食い入るようにスクリーンを見つめている。時折り感嘆の声が上がる。見終わった後、孫文はもう一度とリクエストした。2度目の上映を終わった後、庄吉は映画フィルムをその場で孫文に贈った。感激した孫文は、「これは民族と革命の記録である。長く後世に伝えましょう」と庄吉に語った。この映画は、日本では一度も公開されることがなかった。孫文に見せるためだけに製作したものであったからである。
孫文の死
孫文の革命は、これで終わりではなかった。清国の武将であった袁世凱が実権を握り、専制体制を復活させ、自ら帝位に就こうとさえしたのである。孫文は、再び命を狙われる身となったため、亡命を余儀なくされた。亡命先に選んだ国は日本。庄吉を頼ったのである。1913年8月に来日した孫文を庄吉は温かく迎え入れ、彼のために別宅を提供した。そればかりではなく、生活費、活動費など全ての面倒を見たのである。孫文が、庄吉夫妻の仲人のもと、宋慶齢と結婚式を上げたのも、庄吉邸の大広間であった。
袁世凱打倒を期して帰国してからも、孫文の闘いは続いた。しかし、1925年3月12日、「革命いまだ成功せず」の言葉を残して、孫文は失意の内に息を引き取った。孫文重態の報を受け取って以来、庄吉は猛烈な胃痛に襲われ、起きあがることができない状態が続いていた。そこに届いた「孫文の死」の知らせ。信じられなかった。「間違いであってくれれば」。こんな微かな望みも打ち砕かれ、現実を受け入れなければならないと覚悟した時、必死に押さえていた涙がうなり声と共に流れ落ちた。孫文と出会って以来の30年間が走馬燈のように蘇ってくる。
孫文の死により、一時意気消沈した庄吉であったが、今一度孫文の遺志に報いようと決意する。まず、やろうとしたのは孫文の銅像作り。高さ3・6メートルの巨大な像4基を作った。この狙いは、中国の領土をかすめ取ろうとする日本のリーダーに反省を促すこと。それと、これほどまでに孫文を尊敬している日本人がいることを中国人に示したかった。日中親善のシンボルと位置づけたのである。第一基目の銅像は、庄吉と共に海を渡り、1928年に南京中央軍官学校の校庭に設置された。
孫文の死後9年目の1934年11月23日、庄吉は66年間の生涯を終えた。広田弘毅外相から頼まれて、訪中する直前のことであった。広田外相は軍に外交が振り回されている現状を憂い、日中の話し合いの機会を持とうとしていたのである。庄吉はこの依頼を快諾した。庄吉の体調が思わしくないので、案ずる妻に、「心配ない。中国に行けば、痛みは消えるさ」と言っていた。心は中国に向いていたのだ。その矢先に倒れてしまった。死の最期まで孫文との約束を果たそうとしたのである。
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