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和田勇


和田勇 
(わだいさむ) 

和田勇


東京オリンピック開催の恩人 
溢れる祖国愛と奉仕精神  敗戦国日本に勇気を与えたい 

  アメリカで生まれた在米日系人2世の和田勇は、2つの祖国を持つ。この両国が戦争で敵対しあうという試練の時期を越え、荒廃した日本の復興のため、東京オリンピックの誘致に全力で打ち込んだ。高度経済成長の契機となった東京オリンピックは、一民間人の祖国愛に溢れた貢献によるのである。

東京五輪招致の功労者

  第18回オリンピック東京大会が開催されたのは、1964年10月10日。国立競技場に天皇陛下による開会宣言が響き渡った。その言葉を厳粛な気持ちで聞いていた一人の日系アメリカ人がいた。「日本はこれで、ようやく一等国になったのや」。関西弁で、こう呟く彼の目から、とめどなく涙が流れ落ちていた。
  この人物の名は和田勇。アメリカで野菜、果物を扱う食品ストア十数店を擁するオーナー社長である。妻を伴って、その2日前に来日していた。新聞には、「五輪のカゲの功労者」「東京五輪招致の恩人来日」と大見出しで報じられた。この報道にある通り、東京オリンピック開催は、和田に負うところが極めて大きい。東京オリンピック組織委員会は、その恩に報いて和田夫妻を招待したのである。
  オリンピック開催を契機に、日本は高度経済成長の道を歩んでゆく。これがなければ、日本の発展はもっと遅れていたかもしれない。それを考えれば、単に東京オリンピックの恩人ではなく、日本発展の恩人とも言えるのである。

日系人社会のリーダーに

  1907年9月18日ワシントン州ベリングハムで生まれた和田勇の幼年時代は、不幸の連続だった。父の和田善兵衛が、出稼ぎ漁夫として故郷の和歌山を出て、カナダに出向いたのは1892年。当地で同郷の玉枝と結婚し、勇が生まれた頃はカナダ国境に近いベリングハムで小さな食堂を経営していた。
  しかし生活は困窮を極めたため、勇は4歳から9歳までの5年間、郷里和歌山にある母方の実家に預けられた。9歳で再びアメリカに呼び寄せられたものの、すでに実母はいなかった。出産が原因となり25歳の若さで命を落としたのである。
  家から自立したのは12歳。農園で雑役夫として働き、そこから通学した。17歳の時、食品の小売りチェーン店で働きはじめ、その3年後にはオークランドで独立。26歳で田端正子と結婚した頃には、従業員25名、店舗3軒を擁するまでになっていた。
  妻の正子を驚かせたのは、彼の実行力とリーダーシップ力であった。仕入れを共同にしたら、仕入れ原価が安くなる。こう考えると、すぐ共同購入組合の組織化に取り組みはじめた。瞬く間に共同組合「イーストベイ食料小売組合」が、できてしまい、和田は推されて理事長に就任した。その後、33歳の若さでオークランド日系商工会議所副会頭に就任し、日系人社会の若手リーダーとして存在感を示していた。
  和田の人生で最も辛く、過酷であったのは、1941年12月8日に始まった日米戦争の期間である。日系人の多くは収容所に連行された。しかし、和田は人間性を剥奪された収容所生活を拒否し、ユタ州への移住を決断した。絶望的状況の中で、和田の計画に一縷の希望を見出した日系人130人を引き連れての集団移住であった。
  しかし、この集団農場計画は完全に失敗に終わった。彼らの入植地は余りにも荒れた土地だったのだ。数年後には、ほとんどが農場を去っていた。苦悩する和田にとって唯一の救いは、農場を去る者が誰一人として、和田を恨まなかったことである。私財を投げ出して苦労する和田の姿を知っていたからである。
  戦後、ロサンゼルスに住んでいた和田夫妻に嬉しい知らせが届いた。オークランドの日系人社会が「イサム・ワダに感謝する会」を開きたいと言うのだ。実は、戦時中オークランドの日系人は、一人も連行されることはなかった。それは和田が白人社会に溶け込むために、赤十字などに多額の寄付をするなどでリーダーシップを発揮したからであった。オークランドの日系人は高い評価を受けていたのである。日米の戦争、集団移住の失敗などの辛い経験の後、この時ほど、和田を慰め感激させたことはなかった。

日系人を勇気づけた選手団

  戦争が終わって4年経ったある日、日系新聞の一つの広告が和田夫妻の目に止まった。「選手に宿舎提供、奉仕希望者募る」。日本水泳連盟(日本水連)が出した広告記事である。日本水連は、8月18日からロサンゼルスで開催される全米水泳選手権大会に日本選手団を派遣することになった。まだ日米間に国交のない時期のこと。日本水連の田畑政治会長の決断で実現したのである。しかし、日本の保有外貨はゼロに等しい。在米日系人の援助を期待して、日系新聞に広告が出されたのである。
  和田は奉仕精神に溢れていた。祖国のことになると何でも夢中になるような人物である。娘の名を美弥子(京都のミヤコ)とし、息子の名を時雄(東京のトキオ)としたほどである。そんな彼が、新聞広告に飛びつかないはずがなかった。
  幸い、和田の事業は急成長を遂げ、10店舗を数えるまでに発展していた。借金をして大きな家を購入したばかりであった。選手たちを宿泊させるスペースは十分ある。和田は選手団9名全員の宿舎提供を申し入れた。
  和田家に泊まった選手は、古橋廣之進、橋爪四郎など、日本スポーツ史にその名を刻む人物たちである。彼ら日本選手団の活躍は目を見張るものであった。自由形6種目中、5種目に優勝。9つの世界新記録を樹立した。場内アナウンスで世界新記録樹立の発表があるたびに、約7千人の観衆は総立ちになって、日本選手に拍手喝采を送った。6割方、日系人に占められていた会場は、至るところで「バンザイ」が鳴り響く。和田も妻の正子も、涙をぬぐうことも忘れ、バンザイに加わった。
  日系人たちのバンザイには格別の思いがある。日米開戦と同時に、白人から「ジャップ」と蔑まれて、肩身の狭い思いをしてきたのである。日系人に与えた感動は想像絶するものであったのだ。ある日系人の老婆が優勝した日本選手団に近づいてきた。老婆は古橋たちに向かって拝むように手を合わせ、「ありがとうございました」と言って、深々とお辞儀をした。その目から、ハラハラと涙が流れ落ちていた。その老婆の姿に、そこにいた誰もが目頭を熱くした。
  この大会を背後で支えた和田勇の尽力は、単に宿舎を提供しただけではない。食事の面倒まで全て、和田家が自費で引き受けたのである。どうせ面倒を見るならば徹底的に見る。これが和田の性分である。その上、別れる際に彼は選手団全員にスーツをプレゼントしたいと申し入れた。恐縮して遠慮する選手団に、和田は「全米の日系人を勇気づけて下さったことに対するささやかな感謝の気持ちです」と言って譲らなかった。選手たちは誰もが、「好成績の最大要因は和田家を借りることができたことだ」と和田夫妻への感謝の気持ちを表して帰国の途についたのである。
中南米への旅

  1958年の秋、和田夫妻が来日している時のこと。彼らが宿泊するホテルに、日本水連会長の田畑政治が訪ねてきた。6年後の第18回オリンピックを東京に誘致したい。IOC委員の票を集めてもらえないかという依頼であった。カギを握るのは、中南米諸国の票であるという。和田は喜んで引き受けた。日本のことになると何でも夢中になる和田である。闘志がむらむらとわき上がってきた。
  店のことを心配する妻に、和田はきっぱりと言い切った。「東京にオリンピックが開けるなら、店のことはどうなってもええ。このオリンピックをやれば、日本人に勇気と自信を持たせることができるやろ」。今回の仕事は、天が自分に与えた使命だと感じ、そのために私財をなげうつ覚悟までしていたのである。
  和田が中南米諸国を歴訪する旅に出たのは、1959年3月29日から。妻を同行しての40日間の旅がメキシコから始まった。費用は全て和田家からの持ち出しであった。メキシコは、中南米の盟主であることを自他共に認めている国である。まずはこの国の票を固めることである。和田は、IOC委員のクラーク退役将軍に熱っぽく訴えた。「敗戦国日本には、あなたの国のように貧しい人がたくさんいます。でもオリンピックが誘致されれば、ビジネスが生まれます。そして何よりも勇気が与えられます」。
  将軍は、「あなたの熱意に感服しました」と言って、東京開催に賛同すると約束してくれた。和田は感激のあまり涙がこみ上げてきたが、次の手を打つことを忘れなかった。中南米諸国のIOC委員宛に紹介状を書いてもらったのである。
  オリンピック誘致のために、一民間人が40日間も夫婦で旅を続けることなど、考えられないことだった。各国のIOC委員はみなその心意気に打たれ、東京支持を表明してくれた。単に票を集めるだけではない。ブラジルなどの日本人会から、東京オリンピック開催の寄付集めまで行ったのである。
  5月にミュンヘンで行われた投票は、第一回投票で58票中、東京は34票を獲得。文字通りの圧勝であった。「驚いたよ。こんなに取れるとは思わなかった。和田さんのお陰だ」。興奮した田畑会長は、うわずった声で和田に改めてお礼を言った。「僕も嬉しいです」。和田の声もうわずっていた。目頭を熱くした二人は、抱き合って喜んだ。
  和田勇の奉仕精神は、93歳で人生の幕を下ろすまで続いた。日系人の老人ホームを建設したり、日系社会福祉財団を組織して、年老いた日系1世たちの生活を守ろうとした。
  彼の心を支えていたのは、常に溢れる祖国愛であった。「日本が好きで好きでならんのです。日本のために少しでもお役に立てればええと願ってますんや」。和田の口癖であった。和田の世話になった人は、枚挙にいとまがないほど大勢いる。一切の見返りを求めず、生涯にわたり人の世話をしつづけたその生き方は、荒廃した現代社会にあって、オアシスのごとくすがすがしい輝きを示している。



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